彦根城の築城者「井伊直孝」ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
井伊直孝(いいなおたか)は
安土桃山時代に誕生し
江戸時代前期までを生きた武将、譜代大名です。
誕生時期:1590年3月16日
死亡時期:1659年8月16日
滋賀県「彦根城」の建築に
井伊直孝は大きく関わったと伝わっています。
この記事では
井伊直孝とはどんな人なのか?
井伊直孝は何をした人なのか?などなど
井伊直孝についてなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
井伊直孝とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 井伊直孝の誕生日
- 井伊直孝、 1万石を所領
- 井伊直孝と大坂冬の陣
- 井伊直孝と大坂夏の陣
- 井伊直孝、大老に
- 井伊直孝と徳川家綱
- 井伊直孝の最期
井伊直孝の誕生日
1590年3月16日、
井伊直政の次男として
井伊直孝は駿河国中里(静岡県焼津市)で誕生します。
幼少期は井伊家領内の上野国安中の
北野寺に預けられ、そこで養育されました。
井伊直孝、 1万石を所領
井伊直孝は、父の井伊直政の死後、
江戸で徳川秀忠の近習として仕えます。
そして
徳川秀忠が第2代将軍に就任した1605年に
井伊直孝は従五位掃部助に叙任します。
さらに1608年、書院番頭となり
上野刈宿5000石を与えられ、
次いで上野白井藩1万石の大名となり
同時に大番頭に任じられます。
1618年には、井伊直孝は
伏見城の番役となりました。
井伊直孝と大坂冬の陣
井伊直政の死後、
跡を継いだのは井伊直政の長男・直継でしたが、
1614年からの大坂冬の陣では、
徳川家康の命令で次男の井伊直孝が
井伊家を率いて出陣し、井伊家の当主となります。
父の遺領18万石のうち、
彦根藩15万石を継承し、
井伊直勝には3万石が分知されます。
井伊直孝と大坂夏の陣
1615年の大坂夏の陣においては
藤堂高虎と共に先鋒を務め、
敵将・木村重成と長宗我部守親を打ち破ります。
また、徳川秀忠の命令により、
大阪城の山里郭にこもっていた
淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し
自害に追い込むという大功をあげます。
戦後5万石を増加され、
従四位下侍従へ昇進します。
大坂の陣での直孝の勇猛な戦いぶりは
大坂冬の陣屏風、
大坂夏の陣屏風などにも描かれています。
井伊直孝、大老に
1632年、徳川秀忠は亡くなる直前に
井伊直孝と松平忠明を枕元に呼びます。
そしてその時に、
第3代将軍「徳川家光」の後見役を
その二人に任じたそうです。
これが大老職の始まりと言われています。
その後井伊直孝は、
徳川家光からも絶大な信頼を得て
徳川氏の譜代大名の中でも
最高となる30万石の領土を与えられます。
井伊直孝と徳川家綱
その後徳川家綱の元服では
加冠を務め宮参りからの帰り
井伊家屋敷にお迎えもします。
これらと家康の遠忌法会で
将軍名代として日光東照宮に
名代として参詣する御用は、
直孝が務めて以降先例として
彦根藩井伊家固有の御用となりました。
そして朝鮮通信使の応接においても
幕閣筆頭としての役割を担うなど、
直孝は亡くなるまで譜代大名の
重鎮として幕政を主導します。
なお、家光や家綱の治世は、
江戸時代の社会・制度が確立した時代で
直孝の役割は後世まで影響を与える
大きなものといえます。
井伊直孝の最期
1659年、井伊直孝は亡くなります。享年およそ70歳。
最後に
この記事では
滋賀県「彦根城」の建築に大きく関わりをもつ
井伊直孝についてなるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。