柴田勝家(しばたかついえ)とは
戦国時代(室町時代後期)から
安土桃山時代までを生きた武将です。
誕生時期:1522年
死亡時期:1583年6月14日
織田信長第一の猛将として戦功があり
北陸の経営などに当たりました。
この記事では
柴田勝家とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
柴田勝家について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。
柴田勝家ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
柴田勝家の誕生日
柴田勝家は、1522年頃に
尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市)で生まれます。
※正確な誕生日については不明です。
1526年や1527年に
柴田勝家が誕生したという説があったり
「柴田勝家は柴田勝義(かつよし)の子」
といわれていたりしますが、
柴田勝家について確実な資料はありません。
織田信長の父「織田信秀」に仕える
若い頃から、織田信長の父である
織田信秀の家臣として仕えています。
織田信長が家督を相続した時に、
柴田勝家はすでに織田家の重鎮であったと言われています。
織田信長の弟「織田信行(信勝)」に仕える
1551年に織田信秀が亡くなると、
柴田勝家は織田信長の弟にあたる
織田信行(信勝)に家老として仕えます。
柴田勝家は織田信行の家臣の頃から、
猛将としての実力を発揮していて、
萱津(かやづ)の戦いでは30騎を討ち取るなどの武功を立てます。
また、老臣の林秀貞(はやしひでさだ)とともに
織田信行を織田家の後継者にしようと挙兵しますが
稲生の戦いで織田信長に敗れて、降伏。
織田信長に許しをもらえた後、
柴田勝家は、織田信行を裏切ります。
織田信行が織田信長に対する
謀反の計画を立てていることを
事前に織田信長に密告したそうです。
その結果、謀反を企てた織田信行は、
織田信長の家臣であった河尻秀隆らに殺されます。
柴田勝家は、罪を許されたのち織田信長の家臣となりました。
柴田勝家と織田信長
1568年、織田信長が足利義昭を奉じた
上洛戦などに柴田勝家は重用されます。
■上洛:主に京都に入ることを意味する
南近江の六角氏との勝竜寺城の戦いでは、
織田軍の4人の先鋒として戦功を上げます。
その後も柴田勝家は、織田信長の
比叡山の焼き討ちなどにも参加します。
柴田勝家は猛将として活躍し
「鬼の権六」と恐れられます。
織田信長の死
1575年に柴田勝家は
織田信長から北陸経営を任されます。
そのため柴田勝家は、
越前北庄にたてこもって加賀、能登を平定。
さらに越中に攻め入って
越後の上杉景勝と対陣します。
しかしその最中に、
本能寺の変が起こり織田信長が亡くなります。
柴田勝家の妻「お市」について
柴田勝家は「お市」という女性と
結婚することになります。
これは豆知識ですが
柴田勝家と妻のお市は
25歳も年が離れていたとのこと。
そしてこの結婚。
豊臣秀吉が柴田勝家を丸め込むために
仕向けた結婚だったと伝えられています。
柴田勝家と豊臣秀吉
織田信長の死後、
1582年に行われた清洲会議で、
豊臣秀吉と柴田勝家の間で主導権争いが起こります。
柴田勝家と賤ヶ岳の戦い
柴田勝家は、滝川一益、
織田信長の三男「織田信孝」と協力して
豊臣秀吉を排除するために挙兵します。
しかし柴田勝家は
賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れます。
柴田勝家の最期
1583年6月14日、
柴田勝家は逃げ延びた北ノ庄城で
妻のお市の方と共に自害します。享年61歳。
また、この戦いに勝利した豊臣秀吉の地位が確立することとなります。
最後に
この記事では
柴田勝家とはどんな人だったのか
何をした人だったのかなどを
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。
少しでもお役に立てば幸いです。