結論からいいますと
本多忠勝の死因は病死だとされています。
- 本多忠勝の誕生日:1548年3月17日
- 本多忠勝の命日:1610年12月3日
※本多忠勝の最期の年齢は62歳
本多忠勝の死因の病名は不明ですが
1607年頃から本多忠勝は眼病を患い
1609年頃から隠居を開始しているため
目に関係する病気だったかもしれません。
また、死因について具体的なことが不明なので
恨みをもった敵に暗殺された可能性もあります。
なぜなら本多忠勝は生涯で57回の戦をし
かすり傷ひとつ負わず徳川家康を支えた
四天王の一人といわれる程の人物だからです。
本多忠勝はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
本多忠勝(ほんだただかつ)は
戦国時代(室町時代後期)に誕生し
江戸時代前期までを生きた武将・大名です。
- 本多忠勝の誕生日:1548年3月17日
- 本多忠勝の命日:1610年12月3日
※本多忠勝の最期の年齢は62歳
生涯で57度の戦の中でかすり傷ひとつ負わず
徳川家康を支えた四天王の一人と称されています。
この記事では
本多忠勝とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
本多忠勝の生涯(最初から最期)を
簡単にわかりやすく解説していきます。
※本多忠勝の死因考察にもぜひお役立てください💡
本多忠勝の誕生日
本多忠勝は
1548年3月17日(天文17年2月8日)に
本多忠高の長男として三河国
(現・愛知県)で生まれます。
本多忠勝の幼名は鍋之助で
通称は平八郎。
本多忠高が生後1年のときに、
父の忠高が戦死した為、
叔父の忠真のもとで育てられます。
本多忠勝、自分の力で武功を立てる
本多忠勝の初陣は14歳で、
叔父の忠真に従軍したときです。
敵兵を槍で刺していた忠真が、
本多忠高に向かって
「この首を取ってお前の軍功にしなさい」
と言いますが
「人の力を借りてまで、
武功を立てようとは思いません」
と本多忠高は言ったそうです。
そして本多忠高は
自ら敵陣に駆け入って敵の首を挙げた為、
周囲の人たちは「ただ者ではない」と驚いたそうです。
本多忠勝、徳川四天王の一人に
その後の戦いでも、本多忠勝は
次々と戦功を挙げていきます。
徳川一代の間の主要な戦いにおいて
抜群の戦功を挙げるのです。
小牧・長久手の戦いには大功をたてて、中務大輔に任じられます。
本多忠勝は生涯において
参加した合戦は57回に及びますが、
いずれの戦いにおいても
かすり傷一つ負わなかったと伝えられています。
本多忠勝と関ケ原の戦い
1600年に起きた関ケ原の戦いでは
徳川家康が率いる東軍に従軍します。
わずかな手勢で90にも及ぶ首級をあげた功績から、
1601年に本多忠勝は、伊勢国桑名(現・三重県)に10万石を与えられました。
本多忠勝の最期
1607年頃、本多忠勝は眼病を患い
1609年に嫡男・忠政に家督を譲って隠居します。
1610年12月3日(慶長15年10月18日)に
本多忠勝は桑名で亡くなります。享年62歳。
※桑名(くわな):現在の三重県北東部。
本多忠勝の死因は病死です。
- 本多忠勝の誕生日:1548年3月17日
- 本多忠勝の命日:1610年12月3日
※本多忠勝の最期の年齢は62歳
本多忠勝の死因の病名は不明ですが
1607年頃から本多忠勝は眼病を患い
1609年頃から隠居を開始しているため
目に関係する病気だったかもしれません。また、死因について具体的なことが不明なので
恨みをもった敵に暗殺された可能性もあります。なぜなら本多忠勝は生涯で57回の戦をし
かすり傷ひとつ負わず徳川家康を支えた
四天王の一人といわれる程の人物だからです。
本多忠勝の逸話
本多忠勝は戦での活躍に秀でた人物で、
数々の逸話が残っているので紹介します。
”家康に過ぎたるもの”
朝倉氏や武田氏に仕える猛将と戦い、
その強さから次の狂歌がある程です。
家康に過ぎたるものは二つあり
唐の頭に本多平八
この狂歌は、
小杉左近が書いたものと言われています。
本多平八は本多忠勝のことです。
「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で
作られた兜で、当時日本では珍しい品物でした。
これを徳川家康は愛用していたようです。