結論からいいますと
徳川秀忠の死因は不明ですが
病死であったと推測されています。
もしも徳川秀忠の死因が病死ならば
その病名は胃がんか、寄生虫病です。
- 徳川秀忠の誕生日:1579年5月2日
- 徳川秀忠の命日:1632年3月14日
※徳川秀忠の最期の年齢は52歳
史料に記載された内容などから
徳川秀忠の死因は寄生虫病だと
以前までは推測されていました。
ただ今は、医師のカルテ情報などから
徳川秀忠の死因は胃がんによる病死
という説が一番有力な説とされています。
※ちなみに徳川秀忠の父である徳川家康の死因も、胃がんによる病死説が有力な説だと考えられています
徳川秀忠はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
徳川秀忠(とくがわひでただ)は
安土桃山時代から江戸時代までを生きた戦国武将です。
- 徳川秀忠の誕生日:1579年5月2日
- 徳川秀忠の命日:1632年3月14日
※徳川秀忠の最期の年齢は52歳
※徳川秀忠は、あの徳川家康の子供の1人です。
徳川秀忠は「徳川家康の息子」
という評判だけでなく
第2代江戸幕府将軍になったことでも、
歴史に名を残している戦国武将です。
そんな徳川秀忠は
どんな生涯を送ったのでしょうか?
この以下では
徳川秀忠の生涯についてや
妻や母、死因(最期)などについても
簡単な言葉でわかりやすく解説していきます。
徳川秀忠の死因考察にもぜひお役立てください💡
徳川秀忠の誕生日
徳川秀忠は
1579年5月2日(天正7年4月7日)に
遠江国浜松(現・静岡県)で
徳川家康の三男として誕生します。
徳川秀忠の生まれた年に、
長男の徳川信康は織田信長の
命によって切腹しています。
また、次男は父の徳川家康から
嫌われていた為、三男である徳川秀忠が事実上の跡継ぎとなります。
徳川秀忠の母について
徳川秀忠の母は、父である徳川家康の
側室であった西郷局(さいごうのつぼね)で、
通称「お愛の方」でも知られています。
松平忠吉の生母でもあり、
徳川家康から信頼されていた女性だったと伝わります。
徳川秀忠と江戸幕府
関ヶ原の戦いでは、天候に恵まれず
戦の開始までに間に合わなかったことを
徳川秀忠は徳川家康にとても怒られます。
江戸幕府が開かれてから5年で
徳川家康は徳川秀忠に将軍職を譲ります。
1605年に徳川秀忠は
第2代江戸幕府将軍となります。
徳川家康の死後、徳川秀忠は、
武家諸法度の制定など幕政の整備に努めます。
徳川秀忠の最期
徳川秀忠は1632年3月14日(寛永9年1月24日)に亡くなります。享年52歳。
徳川秀忠の最期(最後)の様子について
具体的な資料はなく謎に包まれています。
徳川秀忠の死因についても
明らかになっていませんが
病死の可能性が高いと推測されています。
- 徳川秀忠の誕生日:1579年5月2日
- 徳川秀忠の命日:1632年3月14日
※徳川秀忠の最期の年齢は52歳
もしも徳川秀忠の死因が病死ならば
その病名は胃がんか、寄生虫病です。史料に記載された内容などから
徳川秀忠の死因は寄生虫病だと
以前までは推測されていました。ただ今は、医師のカルテ情報などから
徳川秀忠の死因は胃がんによる病死
という説が一番有力な説とされています。※ちなみに徳川秀忠の父である徳川家康の死因も、胃がんによる病死説が有力な説だと考えられています
徳川秀忠の3人の妻について
徳川秀忠の妻は
3人いたと言われています
- 正室:小姫
- 継室:江
- 側室:静
徳川秀忠の妻について、以下で簡単に解説します。
小姫(おひめ)【徳川秀忠の妻】
はじめの正室であった小姫(おひめ)は
織田信長の次男の織田信雄の長女であり
豊臣秀吉の養女となった人物です。
小姫は6歳のときに嫁いでいることからも
政略結婚であったことが分かります。
しかし、織田信雄と豊臣秀吉の関係が
悪化したことによって、この婚姻はなくなりました。
江(ごう)【徳川秀忠の妻】
徳川秀忠の妻として
一番有名なのは継室である江(ごう)で
崇源院(すうげんいん)の名でも知られています。
江は浅井長政の娘であり、小姫と同じく豊臣秀吉の養女となっていました。
徳川秀忠と江の間には7人の子どもがいたことや、江が嫉妬深かったという史料もあることから、夫婦仲は良好だったのかもしれませんね。
静(しず)【徳川秀忠の妻】
静(浄光院)は、徳川秀忠との間に
一人の子どもを産んでいます。
しかし、静(しず)は
正式な側室になっていないまま
産まれた子供は保科家の養子となって静も一緒についていきました。