日本の歴史に大きく名を残した
戦いである「関ヶ原の戦い」。
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代に起きた戦いです。
開戦時期:1600年10月21日
誰もが知っているこの戦いですが、
どんな戦いだったのか、
決戦の場所はどこだったのか、
あなたは知っていますか?
この記事では
関ヶ原の戦いの概要を詳しく解説していきます。
関ヶ原の戦いとは?
関ヶ原の戦いについて解説していきます。
まず、簡単に言うと
関ヶ原の戦いとは、1600年(慶長5年)に
徳川家康を大将とする東軍と
石田三成を中心とする西軍が行った決戦です。
関ヶ原の戦いの結果、
豊臣政権は統一政権の地位を失った一方で、
勝者である徳川家康は権力を手に入れて
江戸幕府を開く道筋が開かれたのです。
また、この戦いの後に
徳川家康が天下を握ったことから
「天下分け目の戦い」とも呼ばれています。
決戦の場所はどこ?【関ヶ原の戦いの決戦地について】
あなたは、「関ヶ原の戦い」の
決戦の場所はどこかご存知ですか?
関ヶ原の戦いは、
美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われました。
現在の岐阜県不破郡関ヶ原町です。
関ヶ原における決戦を中心に、
日本の全国各地で戦闘が行われたのです。
主戦場となった関ヶ原古戦場は、
現在、国指定の史跡となっています。
関ヶ原の戦いが始めるまでの経緯
関ヶ原の戦いが始まるきっかけとなる
最初の引き金は豊臣秀吉の死です。
天下統一をしていた豊臣秀吉が
1598年(慶長3年)に亡くなります。
そして政権獲得のため
徳川家康が動きだします。
もともと野心の強かった徳川家康は、
許可なしでは禁止されていた
大名同士の結婚計画などを行っていました。
豊臣家内部に対立が起き
豊臣秀吉の正室である北政所は徳川家康と、
側室である淀君は石田三成と手を結びます。
翌年、五大老の一人であり、
徳川家康との対立関係を調整していた
前田利家が亡くなります。
すると徳川家康は
石田三成を嫌っていた加藤清正や福島正則らを
味方につけて、三成と家康の対立は激化。
こうした政治状況下、徳川家康と
大老であった上杉景勝との関係が悪化。
上杉景勝は徳川家康から
謀反の疑いをかけられます。
そこで上杉景勝の家老である直江兼続が、
徳川家康に「直江状」という手紙を送ります。
この手紙の内容が非常に挑戦的だったため
徳川家康は怒り、上杉家の領地・会津へ軍を攻めます。
この攻撃が、
石田三成の挙動を挑発する徳川家康の作戦でした。
石田三成はこの挑発にのり、
総大将に毛利輝元を、
副大将に宇喜多秀家にたてて
「徳川討伐」の挙兵をあげます。
こうして関ヶ原の戦いは
始まりを迎えることになるのです。
関ヶ原の戦いはどんな戦いだった?
石田三成ら西軍は総勢10万人、
徳川家康ら東軍は総勢7万人が
関ヶ原に陣をかまえます。
はじめは西軍(石田三成ら)が優勢でした。
しかし、東軍の黒田長政らの働きによって
西軍の小早川秀秋らが東軍へ寝返ります。
これによって西軍は総崩れとなって、
両軍合わせて8000人もの死者が出たとされる
関ヶ原の戦いは、東軍を率いた徳川家康の大勝利となったのです。
最後に
この記事では「関ヶ原の戦い」とは何か、
決戦の場所はどこだったのか、
概要をできるだけわかりやすく解説しました。