黒田長政とは?何をした人?わかりやすく解説【福岡県「福岡城」の築城者】
黒田長政(くろだながまさ)は
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代前期までを生きた武将・大名です。
誕生時期:1568年12月
死亡時期:1623年8月29日
歴史に名を残す「関ヶ原の戦い」で
徳川家康が一番の功労者と評価した人物です。
また、福岡県「福岡城」を築城した人物も
この黒田長政(くろだながまさ)です。
この記事では
黒田長政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
黒田長政について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。
目次
黒田長政とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 黒田長政の誕生日
- 黒田長政、豊臣秀吉の人質に
- 黒田長政、豊臣秀吉に仕える
- 黒田長政と、その父「黒田孝高(黒田官兵衛)」
- 黒田長政と石田三成
- 黒田長政と関ヶ原の戦い
- 黒田長政、福岡城を築城
- 黒田長政の最期
黒田長政の誕生日
1568年12月21日、
黒田孝高(官兵衛・如水)と
正室(妻)の櫛橋光の嫡男として
播磨姫路城にて生まれます。
黒田長政の幼名は「松寿丸」。
黒田長政、豊臣秀吉の人質に
1577年黒田長政は、
織田信長の部将であった
豊臣秀吉の人質として近江国長浜城に移ります。
黒田長政は人質でしたが、
豊臣秀吉のおね夫婦から可愛がられて育ったと伝えられています。
1578年、織田信長に
一度降伏した荒木村重が謀反します。
それに父の孝高も加担したという
疑いをかけられ、信長からの命令で
松寿丸は処刑されることとなります。
ところが秀吉の軍師であった
竹中重治(半兵衛)がひそかに松寿丸の
身柄を匿って、信長には処刑したと
虚偽の報告をするという機転を効かせます。
その後、父が救出され
疑念が晴らされたため、姫路へ帰郷しました。
黒田長政、豊臣秀吉に仕える
織田信長が死去し、
黒田長政は父と共に
豊臣秀吉に仕えます。
黒田長政が14歳のときに
豊臣秀吉の備中高松城攻めに従い、
初陣の冠山城の戦いなど毛利氏と戦います。
その後も1583年の賤ケ岳の戦い、
1584年の小牧・長久手の戦い、
1587年の九州征伐などで武力を挙げます。
黒田長政と、その父「黒田孝高(黒田官兵衛)」
1589年、黒田長政の父である
黒田孝高(黒田官兵衛)が隠居したために
黒田長政は家督を相続し、同時に従五位下、甲斐守に叙任します。
黒田長政と石田三成
1592年から始まった文禄・慶長の役に
出陣し、目覚ましい働きを見せますが、
石田三成ら官僚派と対立するようになりました。
黒田長政と関ヶ原の戦い
1598年、豊臣秀吉が亡くなると
黒田長政は石田三成らと対立していた
徳川家康に接近します。
先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・
糸姫と離縁をし、家康の養女
栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎えました。
1600年、関ヶ原の戦いが始まると
東軍(徳川方)として黒田軍を率いて
その武勇をおおいに発揮します。
本戦における黒田長政の活躍はすさまじく
切り込み隊長として西軍に猛攻を加え
三成の家老・島清興を討ち取ります。
さらに西軍の小早川秀秋や吉川広家など
諸将の寝返り工作を成功させ、
東軍の勝利に大きく貢献しました。
戦後、家康も黒田長政の働きを
一番の功労者として評価し、
子々孫々まで罪を免除するという
お墨付きをもらいます。
さらに御感状を賜り、
筑前国名島(現在の福岡県)に
52万3,000石の大封を与えられます。
黒田長政、福岡城を築城
当時、筑前国にあった名島城は
手狭で、不便な土地でありました。
そのため、父・如水とともに
新しいお城を築城します。
1606年、
7年程で「福岡城」を完成させ、
黒田長政は初代福岡藩主となります。
黒田長政の最期
1623年8月29日、黒田長政は亡くなります。享年56歳。
最後に
この記事では
黒田長政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
黒田長政について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。
少しでも役に立てば幸いです。