西南戦争とは何か?簡単にわかりやすく解説【決戦の場所や原因、中心人物も紹介】

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熊本城を再建している様子
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西南戦争―最強薩摩軍団崩壊の軌跡 (歴史群像シリーズ (21))

 

明治時代の1877年に起きた西南戦争(せいなんせんそう)とは、日本国内で最後の内戦です。

 

また明治維新の活躍者であった
西郷隆盛は、この戦争の首謀者として
逆賊の名を背負うこととなります。

 

西南戦争とは何か?
決戦の場所や原因、中心人物などなど
西南戦争について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

 

西南戦争とは?

西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)

西南戦争は、西南の役とも呼ばれ
1877(明治10)年に起きた国内最後の戦争です。

西郷隆盛を中心とした薩摩藩士らが
明治新政府に対して不満を持ち、
挙兵したことで始まった戦争です。

 

1877年9月24日、
最後の総攻撃を仕掛けた薩摩軍でしたが、
次々と新政府の銃弾に倒れていきます。

そして中心人物である西郷隆盛も
腹と股に銃弾を受け、最期を悟ります。

 

薩摩軍の別府晋介に介錯を促して
西郷隆盛は明治天皇がいる東の方角に
一礼をし、自刃したと伝わっています。

 

またこの戦争では、
西郷隆盛の弟である西郷従道
明治新政府側として参戦をしています。

 

西南戦争が起きた原因

そもそも西郷隆盛は
薩長同盟を結んで江戸無血開城の実現など、
明治維新に向けて大活躍した人物です。

 

倒幕にも大きな役割を果たした彼が
なぜ自分も参加した新政府に逆らったのでしょうか?

 

一番の原因は、
士族による明治新政府への不満
考えられます。

士族とは、江戸時代の武士のこと。

それまでは家柄の良さで優位に立ち、
大名など殿様から給料をもらっていた武士が
新政府によってその保障がなくなってしまったのです。

 

そして明治政府内では別件で
意見が分かれていました。

征韓論です。

 

西郷隆盛板垣退助などは
朝鮮に戦争を仕掛ける征韓論を提唱します。

 

しかし慎重派であった大久保利通たちと
考えが合わずに、西郷隆盛は
明治政府を辞めて鹿児島へ戻ります。

 

その後西郷隆盛は、鹿児島で
士族の勉強を育む私学校を設立します。

しかし、士族からも信頼厚い
西郷隆盛の作った私学校は
明治政府にとって脅威に映ったのです。

反乱を防ごうと考えた明治新政府は、
薩摩藩の火薬庫から兵器や弾丸を
大阪へ移し出そうとします。

 

それを目撃した薩摩藩の士族達が怒り、
逆に明治政府の武器庫を次々と襲撃します。

 

当初、戦争に消極的な西郷隆盛でしたが
政府による西郷隆盛暗殺の事実まで分かり、
西南戦争は避けられないものとなりました。

 

西南戦争の決戦の場所

西南戦争 民衆の記《大義と破壊》

西南戦争は最初、
熊本城とその近辺から始まります。

熊本城は現在の熊本県熊本市中央区に位置します。

 

薩摩軍は一気に熊本城を落とすつもりでした。

しかし江戸時代加藤清正が建てた
難攻不落で知られる熊本城の牢獄さに阻まれます。

 

また、熊本城へ向かうまでに通る
田原坂も、西南戦争の激戦の地となります。

 

最終的には薩摩軍300人程度に対し
政府軍は7万人の兵力の差となりました。

 

そして西郷隆盛は、最期
鹿児島県鹿児島市城山町にある
城山近くの岩崎谷で、生涯の幕を閉じたのです。

最後に

西南戦争と自由民権

この記事では、西南戦争とは何か?
決戦の場所や原因、中心人物などなど
西南戦争についてなるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

 

 

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