生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】

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高松
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戦国大戦 豊臣004 C生駒親正

 

生駒親正(いこま ちかまさ)
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代初期までを生きた大名、武将です。

誕生時期:1526年
死亡時期:1603年3月25日

 

 

高松に高松城を築城し
高松市の基礎を築いた人物です。

 

 

この記事では
生駒親正とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
生駒親正について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介していきます。

 

 

生駒親正とは?【その生涯をざっくりわかりやすく解説】

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生駒親正の誕生日

生駒親正は1526年
美濃国可児郡土田(現・岐阜県)
生駒親重の子として誕生します。

母は美濃の曾根氏です。

通称は土田甚助、他にも別名で
近規、近正、政勝、近親、正成、
近世などがあり、最後に親正と名乗ります。

 

生駒親正、織田信長へ仕える

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1556年、生駒親正は織田信長
美濃攻めに際して父と共に家来となります。

その後は
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉
付属の武将に任じられます。

 

  • 金ヶ崎の戦い
  • 長篠の戦い
  • 石山本願寺攻め
  • 紀伊国雑賀攻め

などなど、織田信長が亡くなるまでの間
生駒親正はいくつもの戦に参加しました。

 

生駒親正、豊臣秀吉の家臣に

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1582年の本能寺の変の後は、
豊臣秀吉の家臣となります。

 

秀吉に仕えた後も
秀吉の主な戦いに従軍して活躍します。

  • 山崎の戦い
  • 賤ヶ岳の戦い
  • 小田原討伐
  • 文禄の役

姫路城の城主時代の秀吉に仕えていた
生駒親正は1578年の1000石から始まり
2000石加増、近江国高島2万3500石、
伊勢国神戸城主となり4万1000石加増、
1586年には播磨国赤穂6万石と着々と領地を増やします。

 

 

生駒親正、高松城を築城

日本の城 27号 (高松城) [分冊百科]

そして1595年には
讃岐国(現・香川県)17万1,800石を
与えられ、高松城丸亀城を築城し、
城下町の形成にも着手します。

 

また、讃岐の前国主であり
戸次川の戦いで討ち死にした
十河存保の嫡男・千松丸を預かって養育します。

 

千松丸はまだ幼かったため、
親正は3000石しか与えませんでした。

しかし、成長してから
秀吉と謁見した際に、生駒親正たちが
3000石しか与えてないことに
不服の念を漏らしたといわれています。

しかし千松丸は自身が元服を
迎える年に病死します。

これは生駒親正によって
毒殺されたのではないか、という噂があったようです。

 

 

 

三中老の一人に

生駒親正は
豊臣秀吉の死後には、
中村一氏堀尾吉晴と共に
三中老に任じられて豊臣政権に参与します。

しかしこの三十老は後世に
作られた実在しない制度とする指摘もあります。

 

生駒親正と関ヶ原の戦い

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1600年の関ヶ原の戦いでは
子の一正は徳川家康(東軍)に属し、
生駒親正は秀吉の旧恩から石田方(西軍)に属します。

 

生駒親正は丹後国田辺城の
細川幽斎攻めに家臣を代理として派遣します。

 

理由としては、どちらかが破れても
生駒氏が存続できるように考えたのではないか、という説などがあります。

 

結果は、徳川方の東軍が勝利し、
東軍に味方した子・一正によって所領は安堵されます。

しかし、西軍に属していた生駒親正は
責任を取り高野山へ隠退します。

 

 

 

生駒親正の最期

生駒親正は讃岐に戻り、
1603年3月25日に高松城にて亡くなります。

 

最後に

戦国大戦 豊臣004 C生駒親正

 

この記事では
生駒親正とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
生駒親正について
なるべく簡単な言葉でわかりやすく紹介しました。

 

少しでも役に立てば幸いです。

 

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