壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは
平安時代末期に行われた歴史的な戦いです。
※壇ノ浦の戦いの時期:1185年の春頃
この壇ノ浦の戦いは、
源平合戦(治承寿永の乱)の1つです。
豆知識ですが、治承寿永の乱は、
1185年の壇ノ浦の戦いまでという考え方と、
1189年の奥州合戦までという考え方があります。
ちなみに
壇ノ浦の戦いによって平家は滅び、
奥州合戦によって源頼朝が全国統一をしました。
この記事では
壇ノ浦の戦いとはどんな戦いか?
決戦の場所はどこだったのか?などなど、
壇ノ浦の戦いについて
わかりやすく簡単に解説していきます。
壇ノ浦の戦いとは何か?
まず、壇ノ浦の戦いを簡潔に説明します。
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは
1185年4月25日(寿永4年3月24日)に
長門国赤間関壇ノ浦(現・山口県下関市)で
行われた源氏と平氏の決闘です。
この戦いで平氏は源氏の軍に敗れて
大将であった平宗盛は捕らえられ、平家は滅亡。
この壇ノ浦の戦いで
特に活躍したとされているのが
あの源義経(みなもとよしつね)です。
壇ノ浦の戦いの背景について
ここでは、
壇ノ浦の戦いが起こるまでの
背景を簡単に説明します。
- 平氏の衰え
- 源範頼や源義経に追い詰められる
平氏の衰え【壇ノ浦の戦いの背景】
全盛期には後白河法皇の院政を中止するなど
朝廷の中で政治をも動かしていましたが
周囲から反感や不満なども集まります。
そして1181年、熱病により平清盛は死去します。(享年64歳)
平清盛が病死したことで、
平氏の勢力は次第に衰えていきます。
源範頼や源義経に追い詰められる【壇ノ浦の戦いの背景】
1183年(平清盛の死の2年後)、
平氏は源義仲率いる源氏に攻められます。
源義仲らに攻められた平氏は
安徳天皇と三種の神器を連れ出して
都(京)を抜け出し、西へと逃走します。
ちなみに三種の神器とは次のものです。
- 八咫鏡(やたのかがみ)
- 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
- 草薙剣(くさなぎのつるぎ)
源頼朝は、三種の神器奪還を名目として
弟の源範頼(のりより)と源義経に平氏を追わせます。
1184年(平清盛の死の3年後)には、
源義経の”鵯越の逆落とし”で有名な
一ノ谷の戦いや屋島の戦いなどで平氏を襲います。
※鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)とは、源義経が一ノ谷の戦いにて、馬に乗りながら崖を駆け下りる様子などを表現した言葉
一方、源範頼は九州の平氏方を
葦屋浦(あしやうら)の戦いで破ったため、
平氏の軍は長門彦島(下関)に孤立してしまいます。
そして
長門彦島にいる平氏に対して
東からは源義経が
西からは源範頼が迫ってきます。
ここから
壇ノ浦の戦いが開始されます。
壇ノ浦の戦いの決戦場所はどこ?海の上??
壇ノ浦の戦いの決戦場所は
戦いの名の通り「壇ノ浦」です。
壇ノ浦(だんのうら)とは、
山口県下関市周辺の海域名や地名を指します。
東から源義経がやってきても
西から源範頼がやってきても
平氏は逃げずに海の上で立ち向かいます。
壇ノ浦の戦いの様子や結果について
平氏の総帥であった宗盛らは
平知盛の軍と合体して、500以上の兵船で、
源義経率いる840の船と戦いを開始します。
はじめは
海戦を得意としていた平氏が有利でしたが、
途中で潮の流れが逆転してことによって
形勢が逆転したとされています。
源義経率いる源氏が
一気に平氏に猛攻撃を仕掛けて、
平氏は壊滅状態となり
壇ノ浦の戦いは源氏の勝利に終わります。
壇ノ浦の戦いの後
敗北が決まったとき、
多くの平氏一門が海に飛び込み
自殺をしたそうです。
このとき、まだ6歳だった安徳天皇と、
三種の神器の一つであった草薙剣は
海底に沈んでしまったと言われています。
また、平清盛の娘(建礼門院)も
海に飛び込んだそうですが、救助されています。
宗盛父子は生け捕りにされた後、斬首されています。
最後に
この記事では
壇ノ浦の戦いとはどんな戦いか
決戦の場所はどこだったのかなど、
壇ノ浦の戦いについて
なるべくわかりやすく解説しました。
簡単にまとめると、
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは
源平合戦(治承寿永の乱)の1つで、
源義経の活躍で平氏が滅亡し
源氏が勝利した歴史的な大合戦。
これらの情報がすこしでも
あなたのお役にたてばうれしいです。