奥州合戦と何か?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
奥州合戦(おうしゅうかっせん)は
平安時代末期に起きた戦いです。
1180年から始まった
治承・寿永の乱の最後の戦争です。
奥州合戦とは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
奥州合戦について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
奥州合戦とは?
奥州合戦とは
文治5(1189)年7月から9月にかけて、
鎌倉政権と奥州藤原氏との間で
東北地方にて行われた一連の戦いのことです。
”奥州征伐”とも言われています。
鎌倉政権の指揮者、源頼朝が
奥州平泉の藤原泰衡(やすひら)を征伐しました。
奥州藤原氏の本拠地である
平泉を占拠し、陸奥、出羽両国も
源頼朝の支配下に入ります。
この戦役により、源頼朝による
全国統一が完了し、武士政権が確立します。
奥州合戦の経緯
ここでは
奥州合戦の経緯を
解説していきます。
源頼朝と奥州藤原氏【奥州合戦】
藤原清衡(きよひら)以来、
勢力を築いてきた平泉の藤原氏は、
当時の藤原秀衡(ひでひら)の代には、源頼朝を
脅かすほどの勢力を持っていました。
平氏討伐後の源頼朝にとって
奥州藤原氏は最後の強敵といえます。
源頼朝の弟、源義経【奥州合戦】
一方で、源頼朝の怒りに触れた
弟の源義経が、藤原秀衡を頼って奥州へ逃れます。
源頼朝はこれを機会に、奥州を
支配下に治めようと計画します。
そして
藤原秀衡の死去をきっかけに源頼朝は
藤原秀衡の子どもの藤原泰衡(やすひら)に、
弟(源義経)の引き渡しを迫ります。
源頼朝を恐れた藤原泰衡は、
1189年6月に衣川館で
源義経を自害に追い込みます。
源頼朝、出兵【奥州合戦】
しかし源頼朝は
源義経を匿ったことを口実に
1189年7月、源頼朝は自ら関東の大軍を
率いて鎌倉を出発します。
このとき後鳥羽天皇は
藤原泰衡追討の勅命を出しませんでしたが
源頼朝はそれを無視して出兵しています。
源頼朝の勝利【奥州合戦】
そして源頼朝率いる軍は、奥州にて
藤原泰衡軍を全滅させます。
藤原泰衡は、平泉から逃れますが
部下に殺されて、源頼朝の勝利に終わります。
ちなみに、藤原泰衡追討命令は
事後承認の形で合戦終了後、源頼朝の
もとに届けられたそうです。
なぜ勅命は後から出たの?【奥州合戦】
朝廷は、なぜ
奥州藤原氏追討の勅命を
討伐後に出したのでしょうか?
そもそも源頼朝は、源義経追討の
勅命を朝廷に要請していました。
当時は後鳥羽天皇の時代でしたが
後白河法皇による院政がなされています。
後白河法皇は、
源義経を気に入っていたそうで、
源義経追討の命を出し惜しみます。
次に源頼朝は、藤原泰衡追討の
勅命を朝廷に要請します。
しかし、朝廷にとっては
勢力を拡大している源頼朝を
けん制してくれる奥州藤原氏は
存在してくれた方が有難かったので
この勅命も出し惜しみます。
しかし、源頼朝は独断で
奥州藤原氏を倒してしまいます。
源頼朝によって奥州制圧の
既成事実を作られてしまった以上、
正式に認めないわけにはいかなかったのです。
最後に
奥州合戦とは何か?
どのような戦いだったのか?などなど
奥州合戦について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。