明智光秀の息子「明智光慶(あけちみつよし)」とは?

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明智光慶(あけちみつよし)は
安土桃山時代に生きた武将で、
明智光秀の息子として誕生しました。

明智家の男児として、
唯一存在が確認されているのが光慶です。

その明智光慶はどのような人物であったのか、
この記事で光慶の生涯をざっくり紹介していきます。

 

明智光慶の生涯

明智光慶の誕生

明智光慶は
明智光秀と煕子との間に生まれた長男です。

生年不詳とされていますが、
一説によると1569年(永禄12年)に誕生しています。

明智光秀の書状などの史料によると
光慶は別名「十五郎」または「十兵衛」として記されていました。

 

歴史的に登場するのは、
父である明智光秀が丹波国へ亀山城を築城した
1578年(天正6年)前後だとされています。

しかし、
初陣の記録はなく、
目立った功績や活動も史料にはありません。

明智光慶の記録

光慶が実在したことを記されているのは
1582年(天正10年)5月28日に
明智光秀主催で行われた
西之坊威徳院連歌(愛宕百韻)で
光慶が結句を詠んだことが記録として残されています。

またその数日後、
明智光秀が起こす本能寺の変の後に
細川忠興に送った手紙の中へ光慶の名が書かれていました。

その手紙の中には
「信長を討ったのは天下を取るためではない。
近畿を平定したあとは与一郎殿(忠興)と
十五郎(光慶)に政権を譲りたい」との内容が書かれています。

明智光慶の死

光慶が亡くなったのは
本能寺の変の直後であったとされ、
その死因には2つの説があります。

 

一説には
丹波国・亀山城に在城していた光慶は
本能寺の変の一報を聞き、
父の暴悪非道なふるまいを嘆き
その直後に病死したという説があります。

 

もう一説によると、
本能寺の変の前から近江国・坂本城にいて
山崎の戦いで明智光秀が敗走中に討たれると、
帰還した明智秀満らと共に
中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、
落城の際に他の一族と共に自害したという説があります。

 

生年時期が正しいものであれば、
光慶が13歳頃であったことになります。
そのため、
光慶の子孫はいなかったようです。

明智光慶は死んでいなかった?!

本能寺の変の後に
亡くなったとされる光慶ですが、
実は秀吉から逃れ生存したのちに出家し
僧になったという説があります。

妙心寺の住職となった僧の
「玄琳」が光慶だという説、
または
明智光秀唯一とされる肖像画がある
本徳寺の僧「南国梵桂」が光慶だという説もあります。

 

最後に

明智光慶は明智光秀の息子として
唯一史料に名前が登場するものの、
父と同じく幼少期のことや死因についてなど
詳細はわかっていません。

明智光秀の子どもは
3男4女、もしくは6男7女
いたとされていますが、
それも定かではありません。

 

しかし、
光慶が存在していたことや
明智光秀本能寺の変を起こしたことで、
光慶の人生が大きく左右したことは間違いないでしょう。

 

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