明智光秀のお墓について。

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明智光秀のお墓は
いったいどこにあるのか?

 

明智の名はとても有名ですが
出身の場所やお墓の場所など、
謎に包まれていることも多いです。

 

この記事では、
明智光秀のお墓について
詳しく調べまとめました。

明智光秀のお墓はどこにあるのか?

明智光秀の本拠地とされる
近江(現:滋賀県大津市)には
明智光秀が築城し城主となった
坂本城」があります。

 

その坂本城のすぐそばにある西教寺
明智光秀のお墓が現在も残っています。

この西教寺は、
妻木煕子(明智 煕子)のお墓など
明智一族の墓もあり、明智光秀にとって、
なじみの深いお寺だと伝えられています。
※妻木煕子(明智 煕子):明智光秀の妻

 

西教寺の記録によると、
明智光秀のものとして
首実検に出された首は3体あったとされており、
いずれも顔面の皮がすべて剥がされていたといいます。

さらには夏の時期であったため、
暑さで首がひどく腐敗していたことも
多くの史料に残されています。

 

また、実検の後は
京都の粟田口にさらされた
という記録もあるため、
京都にお墓がある可能性も考えられます。

 

しかし、
その後の行方は記録にないため、
明智光秀がどこで埋葬されているのか
本物のお墓の存在はわかっていません。

 

明智光秀のお墓は1カ所だけじゃない?!

明智光秀のお墓とされるところは
1つだけではなく複数存在します。

明智光秀が死亡した場所について
詳しい場所などがわかっていないため
明智光秀のゆかりの地や、
明智光秀の子孫などが治めた地などに
墓が作られて現在まで残っているようです。

 

明智光秀のお墓の場所について
以下で一覧をまとめました。

明智光秀の墓の場所一覧
  • 和歌山県伊都郡高野町の「高野山奥之院」
  • 岐阜県恵那市明智町の「龍護寺」
  • 岐阜県山県市中洞地区の「桔梗塚」
  • 京都市東山区の「尊勝院」
  • 京都府亀岡市の「谷性寺(こくしょうじ)」
  • 京都府宮津市の「盛林寺」(首塚)
  • 京都府京都市山科区「明智光秀之塚」(胴塚)
  • 滋賀県大津市の「西教寺」

 

明智光秀の誕生から死期まで

明智光秀は、室町時代末期から
安土桃山時代にかけて生きた武将です。

誕生時期は1528年3月10日とし、
亡くなったのが1582年7月2日、
享年55歳といわれています。
※諸説あります。

 

 

明智光秀は本能寺の変を起こし、
主君の織田信長を自害に追い詰めた後
山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、
生涯を終えたことで有名です。

また、一説によると
戦いから逃げる途中の伏見小栗栖で
落ち武者狩りに遭い殺害されたとも伝えられています。

 

このように
最期まで謎のある明智光秀の死は
本当のところはまだわかっていません。

 

真実に近いとされているのは
光秀が信長を討って天下人になってから
わずか11日後に亡くなったということです。

その短い治世は「三日天下」とも言われています。

 

 

最後に

明智光秀のお墓は
近畿地方近辺にいくつも存在し、
実際埋葬されている所はわかっていません。

 

ゆかりのある地であり
正室や明智一族の墓もあることから、
「西教寺」が本物の墓ではないか
という情報を多く目にしました。

 

しかし、明智光秀の最期の死のことも
はっきりとはわかっていないため、
お墓の真相も突き止めることも非常に難しいでしょう。

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