坂本龍馬は、江戸時代末期に
当時の日本を変えようと尽力した志士です。
しかし、坂本龍馬はなんと
31歳という若さで暗殺されてしまいます。
この記事では
坂本龍馬は誰に暗殺されたのか、
なぜ暗殺されてしまったのかなど
坂本龍馬の暗殺について解説していきます。
坂本龍馬の暗殺について
坂本龍馬が暗殺された件は、
「近江屋事件」と呼ばれて
日本の歴史に残っています。
1867年12月10日(慶応3年11月15日)に
坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉の3人が
京都河原町近江屋の井口新助の屋敷で暗殺されてしまいました。
坂本龍馬は誰に、なぜ暗殺された?【坂本龍馬の死因】
この幕末期の日本というのは、
時勢がどんどん変っていきました。
坂本龍馬も
幕府の臣下「勝海舟」に弟子入りしたり
反対に尊王攘夷派の土佐勤王党に入ったりなど
時勢を見定め柔軟に考えを変えていった為
多方面から恨まれていたといわれています。
坂本龍馬は、誰に殺されたのかは
明確になっておらず、諸説あります。
- 京都見廻組説
- 新選組説
- 薩摩藩説
- 紀州藩説
- 土佐藩説
これらの説について解説していきます。
京都見廻組説【坂本龍馬の暗殺・死因】
坂本龍馬を暗殺した説として
一番有力なのが京都見廻組です。
京都市中に潜入する尊攘討幕派の
浪士を取り締まるための江戸幕府の組織です。
坂本龍馬も尊攘討幕派の一人であり、
薩長同盟を締結させたりと幕府にとって脅威な存在であったのです。
また証言などにより、実行犯は
- 佐々木只三郎
- 今井信郎
- 渡辺篤
- 桂隼之助
- 世良敏郎
だと言われています。
しかし今井や渡辺の口述に
食い違いがあったりして、
疑問が残っているのも事実です。
新選組説【坂本龍馬の暗殺・死因】
事件当初に有力だったのが
新選組の犯行とする説です。
事件当時の現場に残された
鞘などの遺留品や、伊東甲子太郎の
同志らの証言から、新選組の
原田左之助ではないかと考えられました。
ただしこちらについても
決定的証拠がないため確証がない状態です。
薩摩藩説【坂本龍馬の暗殺・死因】
薩摩藩の坂本龍馬暗殺説は、
西郷隆盛や大久保利通ら中心とした
薩摩藩内の武力倒幕派によるもの。
公家の岩倉具視と画策して
帝から徳川慶喜追討の勅使をもらいます。
しかし、坂本龍馬のせいで徳川慶喜が
大政奉還してしまい、大義名分を失います。
薩摩藩が、この恨みなどから
坂本龍馬を暗殺したとも考えられています。
紀州藩説【坂本龍馬の暗殺・死因】
坂本龍馬の暗殺は
紀州藩、ないし紀州藩士による
報復行動だとする説もあります。
坂本龍馬率いる海援隊のいろは丸と
紀州藩の船が衝突事故を起こした際の
訴訟問題で紀州藩が敗訴し、これを恨んだ犯行と考えられています。
土佐藩説【坂本龍馬暗殺・死因】
坂本龍馬の暗殺説には、
龍馬の故郷である土佐藩によるもの
という説もあります。
その首謀者は
後藤象二郎と言われています。
それは大政奉還に尽力しながらも
武力倒幕論の二つを同時に進めていた
坂本龍馬に怒りを覚えたのではないかと考えられています。
最後に
この記事では
坂本龍馬の暗殺について解説しました。
最後にわかりやすくまとめると
坂本龍馬が暗殺された理由(死因)は
政治的な恨みが原因の可能性が高いです。