原田左之助ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

WRITER
 
頑張る人
この記事を書いている人 - WRITER -

新選組 原田左之助―残映 (人物文庫)

 

原田左之助(はらださのすけ)
幕末期(江戸時代後期)から
明治時代初期までを生きた新撰組隊士の一人です。

誕生時期:1840年
死亡時期:1868年7月6日

 

原田左之助は
新選組十番隊組長として活躍します。

 

この記事では
原田左之助とはどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

原田左之助とは?何をした人?

新選組十番組長 原田左之助

原田左之助の誕生日

原田左之助は1840年(天保11年)
伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)
藩主に仕える奉公人の家に生まれます。
※原田左之助の具体的な誕生日は不明です。

 

原田左之助は槍の名手

はじめは藩の武家奉公人として
働きますが、逃げ出します。

谷三十郎の兄である谷万太郎から
種田流槍術の免許皆伝を受けて槍の名手として知られるようになります。

 

 

原田左之助と新撰組

江戸試衛館の近藤勇につき従って
浪士組に参加して上洛します。

 

原田左之助は新撰組の結成後に
十番隊組長となって、主だった
新選組の戦闘に関わり活躍します。

その後、徳川慶喜によって大政奉還がなされ
新政府軍と、新撰組を含めた旧幕府軍との間で戦いが起こります。

 

 

原田左之助と彰義隊

原田左之助は、鳥羽伏見の戦い
甲陽鎮撫隊まで新撰組として戦いますが、
その後近藤勇らと離別して、仲の良かった
永倉新八と共に靖兵隊(せいへいたい)を結成します。

 

しかし原田左之助は、江戸を離れてから
”用を思い出した”と山崎宿(現在の千葉県野田市)
にて靖兵隊を離れて、江戸に戻って彰義隊(しょうぎたい)に加入します。

 

 

原田左之助の最期

しかし、上野戦争の際に負傷した
傷がもとで、生涯に幕を閉じます。

原田左之助は
1868年7月6日(慶応4年5月17日)
本所の神保山城守邸で亡くなります。享年29歳。

 

また、入隊した時期が遅かった為に
彰義隊の名簿には原田左之助の名前は載りませんでした。

 

 

原田左之助ってどんな人?

薄桜鬼 リアルフィギュア 1/10塗装済完成品 原田左之助

坂本龍馬暗殺の犯人?

当時、原田左之助は坂本龍馬
暗殺した犯人として疑われていました。

 

その理由は、伊東甲子太郎が暗殺現場に
落ちていた鞘を原田左之助のものだと
証言したことや、中岡慎太郎の証言によると
犯人が「こなくそ」という伊予なまりで喋っていたからだそうです。

 

 

原田左之助は愛妻家

当時の新選組の人たちで、きちんと
結婚している人はほとんどいませんでした。

妾を持つ人などは多くいて、副長の
土方歳三は「モテすぎて困る」という
手紙を書くほどだったとか。

 

原田左之助は、町娘のまさ
結婚していて愛妻家だったそうです。

また、非番の日には子どもを抱いて屯所を訪れて子どもの自慢をするほど家族を大事にしていたそうです。

 

 

原田左之助は短気な性格

原田左之助は、とても
短気な性格であったと伝わっています。

武家奉公人時代、
上官にあたる武士と喧嘩をした際に
上官に「腹を切る作法も知らぬ下司め」とののしられます。

頭に来た原田左之助は、本当に
自分のお腹を切ったのです。

傷は浅かったそうですが、その後も腹を切った話を自慢していたといいます。

 

 

最後に

原田左之助―新選組の快男児

 

この記事では
原田左之助ってどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.