原田左之助の死因とは?暗殺?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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結論からいいますと
原田左之助の死因は戦死です。

  • 原田左之助の誕生時期:1840年
  • 原田左之助の命日:1868年7月6日

※原田左之助の最期(最後)の年齢は28歳

上野戦争の時に、負傷した傷が悪化して
神保相徳の屋敷で死亡したとされています。
※神保相徳の場所:現在の東京都江東区森下3丁目

 

ただし、最期(最後)の詳細は不明なため
暗殺されて死亡した可能性も残っています。

 

原田左之助はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

新選組 原田左之助―残映 (人物文庫)

 

原田左之助(はらださのすけ)
幕末期(江戸時代後期)から
明治時代初期までを生きた新撰組隊士の一人です。

  • 原田左之助の誕生時期:1840年
  • 原田左之助の命日:1868年7月6日

※原田左之助の最期(最後)の年齢は28歳

 

原田左之助は
新選組十番隊組長として活躍します。

 

原田左之助はどんな人だったのか?
原田左之助は何をした人なのか?など
原田左之助の生涯(最初から最期)について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

原田左之助の死因考察にぜひお役立てください💡

柴犬

 

原田左之助の誕生日

原田左之助は1840年(天保11年)
伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)
藩主に仕える奉公人の家に生まれます。
※原田左之助の具体的な誕生日は不明です。

 

原田左之助は槍の名手

原田左之助は、はじめは藩の武家奉公人として働きますが、逃げ出します。

そして、谷三十郎の兄である谷万太郎から、種田流槍術の免許皆伝を受けて槍の名手として知られるようになります。

 

原田左之助と新撰組

原田左之助は江戸試衛館の近藤勇につき従って、浪士組に参加して上洛します。

 

原田左之助は新撰組の結成後に
十番隊組長となって、主だった
新選組の戦闘に関わり活躍します。

その後、徳川慶喜によって大政奉還がなされ
新政府軍と、新撰組を含めた旧幕府軍との間で戦いが起こります。

 

原田左之助と彰義隊

原田左之助は、鳥羽伏見の戦い
甲陽鎮撫隊まで新撰組として戦いますが、
その後近藤勇らと離別して、仲の良かった
永倉新八と共に靖兵隊(せいへいたい)を結成します。

 

しかし原田左之助は、江戸を離れてから
”用を思い出した”と山崎宿(現在の千葉県野田市)
にて靖兵隊を離れて、江戸に戻って彰義隊(しょうぎたい)に加入します。

 

原田左之助の最期

原田左之助は
1868年7月6日(慶応4年5月17日)
本所の神保山城守邸で亡くなります。享年29歳。

上野戦争の際に負傷した傷がもとで生涯に幕を閉じたとされていますが、暗殺された可能性も残っています。

東京本所猿江町神保伯耆守邸において銃瘡にて死

参考:同志連盟記

※ただし、本所にあるのは神保山城守の屋敷なので、この記述は間違いと考えられています。

 

また、入隊した時期が遅かった為に
彰義隊の名簿には原田左之助の名前は載りませんでした。

原田左之助の死因は戦死です。

  • 原田左之助の誕生時期:1840年
  • 原田左之助の命日:1868年7月6日

※原田左之助の最期(最後)の年齢は28歳

上野戦争の時に、負傷した傷が悪化して
神保相徳の屋敷で死亡したとされています。
※神保相徳の場所:現在の東京都江東区森下3丁目

 

ただし、最期(最後)の詳細は不明なため
暗殺されて死亡した可能性も残っています。

 

原田左之助の遺体埋葬場所は不明で
原田左之助のお墓の場所も不明です。

原田左之助の最期(最後)について
謎に包まれていることが多いです。

 

原田左之助は坂本龍馬暗殺の犯人?

当時、原田左之助は坂本龍馬
暗殺した犯人として疑われていました。

 

その理由は、伊東甲子太郎が暗殺現場に
落ちていた鞘を原田左之助のものだと
証言したことや、中岡慎太郎の証言によると
犯人が「こなくそ」という伊予なまりで喋っていたからだそうです。

 

原田左之助は短気な性格?

原田左之助は、とても短気な性格であったと伝わっています。

武家奉公人時代、
上官にあたる武士と喧嘩をした際に
上官に「腹を切る作法も知らぬ下司め」とののしられます。

頭に来た原田左之助は、本当に自分のお腹を切ったのです。

傷は浅かったそうですが、その後も腹を切った話を自慢していたといいます。

 

 

原田左之助は愛妻家?

当時の新選組の人たちで、きちんと
結婚している人はほとんどいませんでした。

妾を持つ人などは多くいて、副長の
土方歳三は「モテすぎて困る」という
手紙を書くほどだったとか。

 

原田左之助は、町娘のまさ
結婚していて愛妻家だったそうです。

また、非番の日には子どもを抱いて屯所を訪れて子どもの自慢をするほど家族を大事にしていたそうです。

 

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