天武天皇(てんむてんのう)とは
飛鳥時代を生きた、日本の第40代天皇です。
誕生時期:不明
死亡時期:686年10月1日
天武天皇(大海人皇子)とは
いったいどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
天武天皇について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
大海人皇子(天武天皇)ってどんな人?
- 大海人皇子(天武天皇)の誕生日
- 大海人皇子(天武天皇)と壬申の乱
- 天武天皇(大海人皇子)と持統天皇
- 天武天皇(大海人皇子)の政治
- 天武天皇(大海人皇子)の最期
大海人皇子(天武天皇)の誕生日
大海人皇子(天武天皇)は、
舒明天皇と斉明天皇(皇極天皇)の子として生まれます。
※大海人皇子(天武天皇)の具体的な誕生日は不明です。
天武天皇の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)で
天智天皇の弟にあたります。
天智天皇とは、645年に蘇我入鹿を倒して
大化の改新を行った中大兄皇子のことです。
大海人皇子(天武天皇)と壬申の乱
兄の天智天皇は、
弟の大海人皇子(天武天皇)を
重要な地位に就かせていました。
しかし672年の亡くなる前に、
次期天皇を息子である大友皇子と定めます。
このことにより、蘇我安麻呂から
命の危険を警告された大海人皇子は
出家して吉野(現在の奈良県)に隠れます。
そして天智天皇の死後、
大海人皇子は皇位継承をめぐって
大友皇子と戦います(壬申の乱)。
この結果、大海人皇子は勝利して、
673年に天武天皇として即位したのです。
天武天皇(大海人皇子)と持統天皇
天武天皇(大海人皇子)は
飛鳥浄御原宮で即位して、
鸕野讃良(うののさらら)皇女を皇后に立てます。
彼女は、後の持統天皇で
壬申の乱から政治に至るまで
天武天皇(大海人皇子)に助言をしたそうです。
また壬申の乱の勝利によって、
天武天皇(大海人皇子)にとって邪魔になりうる
有力な豪族たちは一掃されていた為、
天武天皇(大海人皇子)は強い権力を持っていたのです。
天武天皇(大海人皇子)の政治
天武天皇(大海人皇子)は多くの政策をしています。
- 皇親政治
- 飛鳥浄御原令
- 八色の姓
- 古事記の編纂
これらの政策について以下で簡単に解説します。
皇親政治【天武天皇の政治】
天武天皇の政治の特徴として
大臣を一人も置かないで、
直接政務を行ったことがあります。
そして要職を皇族に就かせるもので、
皇親政治(こうしんせいじ)と呼ばれました。
八色の姓【天武天皇の政治】
684年に天武天皇は
八色の姓(やくさのかばね)を制定します。
これは姓を8級に改めて、朝廷が
氏族を統制しようとした制度です。
豪族たちを力で押さえつけるのではなく
身分を与えて支配することを目的としました。
飛鳥浄御原令【天武天皇の政治】
天武天皇は681年から
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の
編集に着手します。
これは日本で最初の律令で、701年に
制定された大宝律令に大きな影響を与えます。
天武天皇生前の完成はなりませんでしたが、
妻の持統天皇が689年に施行しています。
古事記の編纂【天武天皇の政治】
天武天皇は文化政策も行っています。
稗田阿礼(ひえだのあれ)に「古事記」の編纂と、
自身の息子である舎人親王(とねりしんのう)に
「日本書紀」の編纂を命じています。
また、民間習俗を積極的に取り込んで
現在の勤労感謝の日の元となる新嘗祭(にいなめさい)を制定したのも天武天皇と言われています。
天武天皇(大海人皇子)の最期
天武天皇(大海人皇子)は
686年10月1日(朱鳥元年9月9日)に病死します。
最後に
天武天皇(大海人皇子)とは
いったいどんな人だったのか
何をした人なのか?などなど
天武天皇について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。