結論からいいますと
小松帯刀(清廉)の死因は不明です。
「小松帯刀の死因は病気」が定説ですが
暗殺された可能性もゼロではありません。
※小松帯刀の最期(最後)の年齢は34歳
- 小松帯刀の誕生日:1835年12月3日
- 小松帯刀の命日:1870年8月16日
小松帯刀(清廉)はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
小松帯刀(こまつたてわき)は
幕末期(江戸時代後期)から
明治時代初期までを生きた武士、政治家です。
- 小松帯刀の誕生日:1835年12月3日
- 小松帯刀の命日:1870年8月16日
※小松帯刀の最期(最後)の年齢は34歳
小松清廉(こまつきよかど)の名前でも知られ
明治維新の十傑の一人と称されています。
小松帯刀(清廉)はどんな人なのか?
何をした人だったのか?、などなど
小松帯刀(清廉)の生涯について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
※小松帯刀の死因考察に役立つ情報も盛りだくさんです💡
小松帯刀の誕生日
小松帯刀(清廉)は
1835年12月3日(天保6年10月14日)に
薩摩国鹿児島城下山下町で喜入領主の
肝付兼善(きもつきかねよし)の三男として生まれます。
両親は次男(要之介)を寵愛していて、
小松帯刀は愛情に恵まれずに育ちます。
小松帯刀と儒学
13歳頃から学問の才能を発揮して、特に
儒学を習いますが、病弱な体質でありながら
朝から晩まで勉強していたことがたたって
17歳位から病に伏せがちの生活を送るようになります。
それでも小松帯刀は勉学を続けながら、
武術の修練にも励んで演武館で示現流を学びます。
小松帯刀による幕政改革
1855年に2か月ほど江戸で働き、
再び鹿児島へ戻った小松帯刀は
吉利領主の小松清猷(きよもと)の妹である
近(千賀)と結婚して家督を継承します。
1858年に島津斉彬が亡くなり、島津忠義が薩摩藩主になると、小松帯刀は薩摩の集成館や貨幣の鋳造を行い、他にも長崎へ行って軍艦などの西洋式の海軍知識を習得したりと重要任務を任されます。
そして1861年に小松帯刀は
島津久光の側近に抜擢されます。
配下には大久保利通がおり、共に薩摩藩の幕政改革に取り組みます。
1863年には28歳という若さで
家老職に就任して多くの要職に尽力。
他にも土佐藩脱藩浪士である坂本龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、長州の井上馨と伊藤博文を長崎にある薩摩藩邸にかくまったり、西郷隆盛らと共に薩長同盟の交渉などにも携わっています。
その後、小松帯刀はイギリスと薩摩の友好にも尽力し、英国公使のハリー・パークスを薩摩に招いて島津久光と引き合わせています。
小松帯刀と明治維新
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、
1869年に明治維新の功績が認められ
恩賞として1,000石を授かります。
小松帯刀は、明治新政府にも重用され外国官副知事などを歴任。
しかし1869年5月に、病気の為に辞職してオランダ人医師のボードウィンの診断を受けています。
小松帯刀の左下腹部に腫瘍が確認されていて、ボードウィンは「切除困難」と判断します。
小松帯刀の最期(死因は病気ではなく暗殺?)
小松帯刀は1870年の正月に
遺言書を作成しています。
そして小松帯刀は
1870年8月16日(明治3年7月20日)に、
側室の三木琴に看取られながら
この世を去ったとされています。享年34歳。
こういった流れからも
小松帯刀の死因は病気だと考えられています。
しかしその真実は謎につつまれていて
暗殺された可能性もまだ残っています。
「小松帯刀の死因は病気」が定説ですが
暗殺された可能性もゼロではありません。※小松帯刀の最期(最後)の年齢は34歳
- 小松帯刀の誕生日:1835年12月3日
- 小松帯刀の命日:1870年8月16日