井上馨の死因とは?暗殺?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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結論からいいますと
井上馨の死因は病死です。

  • 井上馨の誕生日:1836年1月16日
  • 井上馨の命日:1915年9月1日

※井上馨の最期(最後)の年齢は79歳

井上馨の最期(最後)の年齢は79歳と高齢なので、年齢から推測してみても「井上馨の死因は暗殺」という説は考えにくいです💡

柴犬

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井上馨《開明的ナショナリズム》

井上馨(いのうえかおる)
幕末(江戸時代後期)に誕生し
大正時代までを生きた長州藩士です。
※政治家や実業家でもあります。

  • 井上馨の誕生日:1836年1月16日
  • 井上馨の命日:1915年9月1日

※井上馨の最期(最後)の年齢は79歳

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井上馨は尊王攘夷運動で活躍し、
明治維新後は外務大臣などを歴任しました。

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井上馨はどんな人だったのか
何をした人だったのか、など
井上馨の生涯について
わかりやすく簡単に解説していきます。

井上馨の死因考察にもお役立てください💡

柴犬

 

井上馨の誕生日

井上馨(いのうえかおる)は
1836年1月16日(天保6年11月28日)に
周防国(現・山口県)で、長州藩士
井上光亨の子(次男)として誕生します。

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井上馨は長州藩士の志道氏の養子となります。

井上家も志道家も毛利元就以前から
毛利氏に仕えた名門の血筋であり、
幕末の志士たちの中では珍しい中級武士でした。

 

蘭学・砲術を習得

1855年、長州藩主の毛利敬親の江戸参勤に従って、その地で伊藤博文と出会います。

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また、岩屋玄蔵や江川英龍と
斎藤弥九郎らから蘭学を学びます。

他にも井上馨は、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、砲術なども学んでいます。

 

イギリスへ留学

井上馨は尊王攘夷運動に加わるようになり
1862年には高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文らと
共にイギリス公使館焼き討ち事件に参加します。

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1863年、藩に嘆願して、以下の”長州五傑”の一人としてイギリスに留学します。

  • 伊藤博文
  • 山尾庸三
  • 井上勝
  • 遠藤謹助

 

留学中に日本との国力の違いを目の当たりにし、井上馨は開国論に転じます。

そして翌年の下関戦争では、伊藤博文と共に急いで帰国し、和平交渉に尽力します。

 

攘夷派として奔走

その後、井上馨は第一次長州征伐で
ひん死の状態から一命をとりとめます。

体調が回復してから
高杉晋作らと長府功山寺で挙兵して、
再び開国攘夷として活動します。

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その後も薩長同盟を結んで、
木戸孝允らと薩長連合に奔走し、
第2次長州征伐で江戸幕府に勝利します。

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財政と外交に尽力

井上馨は明治維新の後、木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、財政に力を入れます。

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その後大蔵大輔に昇進し、
大久保利通が木戸孝允や伊藤博文らと
岩倉使節団として留守政府を預かり、地方行政にも介入しました。

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また井上馨は外交にも携わり
1876年特命副全権大使として
日朝修好条規の締結に関わります。

 

他にも近代的な銀行制度の導入や
三井物産などの貿易商社創設に深く関わり、近代資本主義の基礎を作ります。

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閣僚を歴任

井上馨はのちに、
伊藤博文内閣の外相、内相、蔵相を務め、
鹿鳴館に象徴される欧米政策を展開して
不平等条約の改正にも尽力します。

 

  • 黒田内閣農商務相
  • 第2次伊藤内閣内相
  • 第3次伊藤内閣蔵相

などを歴任します。

 

井上馨の最期

1913年、井上馨は脳溢血で倒れてから左手に麻痺が残り、外出の際は車椅子の生活を余儀なくされます。

その後体調が悪化し、1915年9月1日(大正4年)に井上馨は亡くなります。享年79歳。

井上馨の死因は病死です。

  • 井上馨の誕生日:1836年1月16日
  • 井上馨の命日:1915年9月1日

※井上馨の最期(最後)の年齢は79歳

井上馨の最期(最後)の年齢は79歳と高齢なので、年齢から推測してみても「井上馨の死因は暗殺」という説は考えにくいです💡

柴犬

 

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