井上馨(かおる)ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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井上馨《開明的ナショナリズム》

井上馨(いのうえかおる)とは
幕末(江戸時代後期)に誕生し
大正時代までを生きた長州藩士です。
※政治家や実業家でもあります。

誕生時期:1836年1月16日
死亡時期:1915年9月1日

 

尊王攘夷運動で活躍し、
明治維新後は外務大臣などを歴任しました。

 

この記事では
井上馨とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
井上馨について
なるべくわかりやすく解説していきます。

 

井上馨ってどんな人?

世外井上馨 近代数寄者の魁 (宮帯茶人ブックレット)

井上馨の誕生日

井上馨(いのうえかおる)は
1836年1月16日(天保6年11月28日)に
周防国(現・山口県)で長州藩士の
井上光亨の次男として誕生します。

その後、井上馨は
長州藩士志道氏の養子となります。

井上家も志道家も毛利元就以前から
毛利氏に仕えた名門の血筋であり、
幕末の志士たちの中では珍しい中級武士でした。

 

蘭学・砲術を習得

1855年、長州藩主の毛利敬親の江戸参勤に
従って、その地で伊藤博文と出会います。

 

また、岩屋玄蔵や江川英龍と
斎藤弥九郎らから蘭学を学びます。

他にも、井上馨は
敬親の西洋軍事訓練にも加わり
砲術なども学んでいます。

 

 

イギリスへ留学

井上馨は尊王攘夷運動に加わるようになり
1862年には高杉晋作久坂玄瑞、伊藤博文らと
共にイギリス公使館焼き討ち事件に参加します。

 

1863年、藩に嘆願して、以下の
”長州五傑”の一人としてイギリスに留学します。

  • 伊藤博文
  • 山尾庸三
  • 井上勝
  • 遠藤謹助

留学中に日本との国力の違いを
目の当たりにし、井上馨は開国論に転じます。

そして翌年の下関戦争では
伊藤博文と共に急いで帰国し、和平交渉に尽力します。

 

 

攘夷派として奔走

その後、井上馨は第一次長州征伐で
ひん死の状態から一命をとりとめます。

体調が回復してから
高杉晋作らと長府功山寺で挙兵して、
再び開国攘夷として活動します。

その後も薩長同盟を結んで、
木戸孝允らと薩長連合に奔走し、
第2次長州征伐で江戸幕府に勝利します。

 

財政と外交に尽力

井上馨は明治維新の後、
木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、
財政に力を入れます。

 

その後大蔵大輔に昇進し、
大久保利通が木戸孝允や伊藤博文らと
岩倉使節団として留守政府を預かり、地方行政にも介入しました。

 

また井上馨は外交にも携わり
1876年特命副全権大使として
日朝修好条規の締結に関わります。

 

他にも近代的な銀行制度の導入や
三井物産などの貿易商社創設に深く関わり、近代資本主義の基礎を作ります。

 

閣僚を歴任

井上馨はのちに、
伊藤博文内閣の外相、内相、蔵相を務め、
鹿鳴館に象徴される欧米政策を展開して
不平等条約の改正にも尽力します。

 

  • 黒田内閣農商務相
  • 第2次伊藤内閣内相
  • 第3次伊藤内閣蔵相

などを歴任します。

 

井上馨の最期

1913年、井上馨は脳溢血で
倒れてから左手に麻痺が残り、
外出の際は車椅子の生活を余儀なくされます。

その後体調が悪化し、
1915年9月1日(大正4年)に井上馨は亡くなります。享年79歳。

 

 

最後に

 

この記事では
井上馨とはどんな人だったのか
何をした人だったのか、などなど
井上馨について
なるべくわかりやすく解説しました。

 

少しでも参考になれば幸いです。

 

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