伊達政宗(だて まさむね)は
戦国時代(室町時代末期)に誕生し
安土桃山時代、江戸時代にかけて活躍した
出羽国と奥羽国(現在の東北地方)の戦国大名。
【伊達政宗の誕生日と命日】
- 誕生日:1567年9月5日
- 命日:1636年6月27日
「独眼竜政宗」という異名もあり、
小説や映画、漫画、ゲームなどで
よく主人公に扱われる程、
日本では非常に人気ある戦国武将です。
また、宮城県の「仙台城」を
築き上げたのもこの伊達政宗です。
伊達政宗とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
伊達政宗について
なるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
伊達政宗とは?どんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 伊達政宗の誕生日
- 伊達政宗の家督相続
- 南奥州の覇者となる伊達政宗
- 豊臣政権下の伊達政宗
- 伊達政宗と関ヶ原の戦い
- 伊達政宗、仙台城を建てる
- 伊達政宗の最期
伊達政宗の誕生日
伊達政宗は1567年9月5日に
出羽国(現在の山形県)米沢城で誕生。
伊達政宗の父は伊達輝宗で、
母は最上義光の妹「義姫」です。
伊達政宗は5歳の時に
天然痘(てんねんとう)により
右目を失明したといわれています。
■天然痘(てんねんとう)
天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。
これにより、伊達政宗は現代でも
隻眼・独眼竜と呼ばれるようになります。
伊達政宗の家督相続
1584年(安土桃山時代)、
伊達政宗が18歳のときに
家督を継ぐこととなります。
しばらくは
伊達政宗の父「伊達輝宗」と
二頭政治を行う予定だったのかもしれません。
しかし翌年、伊達輝宗は
畠山義継に捕らえられてしまいます。
それを伊達政宗の手勢は反撃に出て
この報復の過程で伊達輝宗ごと
畠山義継を射殺したといわれています。
その後すぐ人取橋の戦いが起こり
佐竹、蘆名連合軍と戦います。
南奥州の覇者となる伊達政宗
1587年、関白であった豊臣秀吉は
関東・奥羽の諸大名、
特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対し
惣無事令(私戦禁止令)を発令します。
しかし、伊達政宗は
豊臣秀吉の命令を無視して戦争を続けた。
1589年、蘆名義広と戦い勝利します。
これにより奥州でほぼ敵なし状態となり
伊達政宗は南奥州を領する覇者となるのです。
豊臣政権下の伊達政宗
豊臣秀吉による天下統一が進んでおり、
1590年、小田原討伐が実行されます。
これは豊臣政権と北条氏の対決です。
当時伊達家は
北条家と同盟関係にあったため
豊臣秀吉と戦うべきか、
小田原に参陣するべきか、
直前まで悩んだといわれています。
結局、20万の大軍を率いる豊臣秀吉に
抗うことはできず、服属します。
しかし、惣無事令に違反した上に
小田原討伐に遅刻した伊達政宗は、
奥州仕置きにより、会津領を
豊臣秀吉に没収されてしまいます。
また、伊達政宗が
豊臣秀吉と初めて対面したときに
甲冑の上に白い喪服を着る
「死に装束」姿であったというのは
日本で有名なエピソードです。
伊達政宗と関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の死後、
関ヶ原の戦いが勃発し
伊達政宗は「長谷堂の戦い」で
最上義光と共に直江兼続と戦います。
関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)が
勝利したことにより直江軍は撤退し
伊達政宗側の勝利となりました。
伊達政宗、仙台城を建てる
1601年、伊達政宗は
仙台の初代藩主となります。
そして宮城県仙台市に
仙台城を築き上げます。
仙台城は、地元では「青葉城」
という名で人々に親しまれ
伊達政宗が整備した寺社仏閣も
現代にまで仙台藩の栄光を伝えています。
伊達政宗の最期
1636年(江戸時代)、伊達政宗は江戸に滞在中に
食道の病で68歳で亡くなったと考えらています。
最後に
伊達政宗とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
伊達政宗について
簡単にわかりやすく紹介しました。