池田輝政とは?何をした人?わかりやすく解説【兵庫県「姫路城」の築城者】
池田輝政(いけだ てるまさ)は
戦国時代(室町時代後期)に誕生し
江戸時代前期までを生きた武将・大名です。
誕生時期:1565年1月31日
死亡時期:1613年3月16日
兵庫県「姫路城」の
築城者でもあります。
池田輝政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
池田輝政について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
池田輝政とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 池田輝政の誕生日
- 池田輝政、織田信長に仕える
- 池田輝政、家督を相続
- 池田輝政、吉田城の城主に
- 池田家繁栄の基盤を築く
- 池田輝政と関ヶ原の戦い
- 池田輝政と姫路城
- 池田輝政の最期
池田輝政の誕生日
1565年1月31日、池田輝政は
織田信長の重臣・池田恒興の次男として
尾張国清洲(現・愛知県)に生まれます。
幼名は「古新」、
元服してからは「照政」を称します。
池田輝政の通称は「三左衛門」でした。
池田輝政、織田信長に仕える
その後池田輝政は、
父と一緒に織田信長に仕えます。
1578年、
信長の家臣・荒木村重が
謀反した際の花隈城の戦いには
北諏訪ヶ峰に布陣して兄の池田元助と
共に貢献し、信長から感状を賜ります。
1582年、兄と共に
甲州征伐にも出陣します。
池田輝政、家督を相続
1582年に本能寺の変で
織田信長が殺されると、
池田輝政は父兄と共に豊臣秀吉に仕えます。
翌年に、
父が美濃大垣城主となり、
池田輝政は池尻城主となりました。
しかし1584年の小牧・長久手の戦いで
父・恒興と兄・元助が戦死してしまいます。
そのため、
池田輝政が家督を相続し、
美濃大垣城主10万石を領します。
池田輝政、吉田城の城主に
池田輝政は美濃国(現・岐阜県)の岐阜城を居城とします。
その後も池田輝政は紀州討伐や富山の役、
九州平定など豊臣秀吉の主要な合戦の大半に従軍します。
そして1588年、
従四位下侍従に叙任し
豊臣の姓を与えられます。
同年の小田原征伐、奥州仕置には
2000の兵を率いて参陣します。
その功績もあり、戦後には
三河国の内、渥美、宝飯、八名、
設楽において15万2000石に加増され
池田輝政は吉田城の城主となりました。
池田家繁栄の基盤を築く
1594年、豊臣秀吉の仲介によって
徳川家康の娘・督姫を継室とします。
このことで徳川家康から優遇され、
池田家繁栄の基盤を築くきっかけとなります。
また、豊臣政権時代にも
輝政は豊臣一族に準じて優遇されました。
1595年、豊臣秀次の失脚の際
秀次の妻たちの多くが
殺害されたにも関わらず
秀次の正室・輝政の妹は特に
助命されるなど、特別丁重に扱われます。
池田輝政と関ヶ原の戦い
1598年、豊臣秀吉が死去すると
池田輝政は徳川家康に接近します。
福島正則、加藤清正らの
武断派の諸将らと共に行動し、
石田三成と対立します。
1600年、関ヶ原の戦いでは
岐阜城の戦いで福島正則と共に功を挙げます。
戦後、岐阜城攻略の功績から
播磨姫路52万石に加増移封され、
輝政は初代姫路藩主となります。
その後池田輝政は
従四位下・右近衛権少将に叙任されます。
池田輝政が52万石、
弟長吉が6万石、
次男忠継に備前28万石、
3男忠雄が淡路6万石を与えられ、
一族の合計所領が92万石にのぼり
西国最大の大名家となります。
池田輝政と姫路城
輝政は1601から1609年にかけて
姫路城を大規模に改修します。
それと同時に加古川流域の改修や
河川開発事業、都市開発事業も行いました。
池田輝政の最期
1613年1月25日、
池田輝政は姫路にして急死します。享年50歳。
最後に
池田輝政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
池田輝政について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。