堀尾吉晴とは?何をした人?わかりやすく解説【島根県「松江城」の築城者】

WRITER
 
男性の後ろ姿
この記事を書いている人 - WRITER -

戦国はるかなれど(上) 堀尾吉晴の生涯

 

堀尾吉晴(ほりお よしはる)
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代前期までを生きた武将、大名です。

誕生時期:1542年
死亡時期:1611年7月26日

 

 

島根県「松江城」の
築城者でもあります。

 

堀尾吉晴とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
堀尾吉晴について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

堀尾吉晴とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

戦国はるかなれど(下) 堀尾吉晴の生涯

堀尾吉晴の誕生日

1543年、堀尾吉晴は
尾張国丹羽郡御供所村(現・愛知県)の
土豪である堀尾泰晴の長男として誕生します。

生誕月日は分かっていません。

 

父は尾張上四郡の
守護代・岩倉織田氏の織田信安
仕えて重職にありました。

同じく山内一豊の父である
山内盛豊も信安に仕えています。

 

 

 

岩倉織田氏の滅亡

 

当時、岩倉織田氏は
織田信長勢と対立していました。

堀尾吉晴は1559年
初陣である岩倉城の戦い
一番首を取る功名を立てたものの、
岩倉織田氏が滅亡したため父と共に浪人となります。

 

 

 

堀尾吉晴、豊臣秀吉に仕える

映画「のぼうの城」【TBSオンデマンド】

その後、尾張国を統一した
織田信長に仕え、間もなくその家臣
木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えます。

 

1567年の稲葉山城攻めでは
織田軍の稲葉山城に通じる道案内役を
務めたと伝わっています。

1573年には、近江国(現・滋賀県)
長浜の内に100石を与えられます。

その後も堀尾吉晴は武功を挙げ、
播磨国姫路において1,500石、
後に丹波国黒江において3,500石に加増されます。

 

 

堀尾吉晴と豊臣政権

堀尾吉晴は
1582年の備中高松攻めでは
敵将・清水宗治の検死役を務めます。

秀吉の中国大返しにも随行し
山崎の戦いでも貢献します。

1583年、
堀尾吉晴は賤ヶ岳の戦いでも貢献し
若狭国(現・福井県)高浜において
1万7000石をもらい、
翌年には2万石に増加されます。

 

1585年、
佐々成正征伐に従軍します。

また所領も若狭国左垣2万石に移封され
わずか60日後、近江国佐和山(現・滋賀県)
4万石を与えられて移封されます。

 

近江の要所に所領を移されているため
堀尾吉晴は秀吉の信頼を得ていたことが分かります。

 

1587年、九州征伐にも従軍し、
正五位下帯刀先生に叙任されます。

1590年の小田原討伐にも従軍し
秀次の山中城攻めにも参加します。

このとき嫡子・金助が戦死します。

 

これらの功績が賞され
遠江国浜松城主12万石に封じられます。

 

 

堀尾吉晴と関ヶ原の戦い

関ヶ原の合戦―歴史を変えた日本の合戦 (コミック版日本の歴史)

1598年の秀吉死後、堀尾吉晴は
徳川家康に接近し、反家康派との
調整やなかだちを行います。

 

1599年には年齢を理由に
堀尾吉晴は次男・忠氏家督を譲って隠居します。

 

1600年、関ヶ原の戦いには
徳川家康から従軍は忠氏だけで良いと
いわれ、越前へ帰国します。

忠氏は戦功を賞されて
出雲国富田24万石に加増移封されます。

 

 

 

堀尾吉晴と江戸時代

1604年、堀尾吉晴は
豊臣姓を賜っています。

同年、忠氏が若くして亡くなります。

家督は孫の忠晴が継ぎますが、
幼いため堀尾吉晴が後見を務めます。

 

堀尾吉晴の最期

1611年、堀尾吉晴は
出雲国(現・島根県)に
松江城を建造し、本拠を移します。

 

しかし同年7月26日、
堀尾吉晴は亡くなります。

享年69歳。

 

最後に

戦国はるかなれど(上) 堀尾吉晴の生涯

 

堀尾吉晴とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
堀尾吉晴について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.