山内一豊ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
山内一豊(やまうち かずとよ)は
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代前期までを生きた武将、大名です。
誕生時期:1545年
死亡時期:1605年11月1日
流浪の身から
織田、豊臣、徳川の三英傑に仕え、
最終的に土佐一国の大名へと出世しました。
山内一豊とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
山内一豊について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
山内一豊とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 山内一豊の誕生日
- 山内一豊、流浪の身となる
- 山内一豊と姉川の戦い
- 山内一豊と豊臣秀吉
- 居城の提供
- 山内一豊と関ヶ原の戦い
- 山内一豊の最期
山内一豊の誕生日
山内一豊は
1545年(一説では1546年)に
岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の
三男として生まれます。
※山内一豊の具体的な誕生日は不明です。
尾張国葉栗郡黒田(現愛知県一宮市)の黒田城、
もしくは岩倉(現愛知県岩倉市)で生まれます。
山内一豊、流浪の身となる
当時の山内家は岩倉氏の家臣であり、
織田信長と対立していました。
しかし13歳のとき、
兄の十郎が織田信長に攻められ
討ち死に、岩倉城も落城します。
さらに二年後には
山内一豊の父「盛豊」が
織田信長に攻められ自害し、
主家と当主を失った山内家は離散し、
諸国を流浪することとなります。
山内一豊と姉川の戦い
その後幾人かの武将に仕え、
織田信長の配下に入ります。
この頃に、「内助の功」と言われる
見性院と結婚したと言われています。
山内一豊は1570年、
姉川の戦いで初陣し
1573年には朝倉氏との一乗谷城の戦いでは
顔に矢を刺される重傷を負いつつも
敵将である三段崎勘右衛門を討ち取ります。
この功績により山内一豊は
近江国(現滋賀県)で400石を与えられます。
※山内一豊の頬に刺されたとされる矢は
現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されています。
山内一豊と豊臣秀吉
その後山内一豊は豊臣秀吉に仕え、
播磨国(現在の兵庫県)を中心に2,000石を領し、秀吉の中国征伐に従い毛利氏と戦います。
1585年、若狭国西県1万9800石、
次いで近江長浜城2万石となり、
他に1万石の豊臣家直轄領の代官となります。
また、従五位下・対馬守に叙任されます。
居城の提供
山内一豊はその後も
いくつもの戦を乗り越えます。
豊臣秀吉の死後1600年には
五大老の徳川家康に従って
会津の上杉景勝の討伐に参加します。
徳川家康の留守中に
五奉行の石田三成らが挙兵します。
山内一豊は下野国小山における軍議で
諸将が東軍西軍への選択に悩む中、
「家人をすべて連れて戦場に赴くので、
不要になる自分の居城・掛川城を
家康に提供する」と申し入れます。
この発言により、悩んでいた諸将たちを
一挙に徳川方に加担させたとして
徳川家康に感謝されたと言われています。
山内一豊と関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでも
山内一豊は徳川方について
織田信秀の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破ります。
関ヶ原の戦いでは
目立った軍功はありませんでしたが、
居城の提供を真っ先に申し入れたことが
家康から高く評価され、
土佐国一国24万石を拝領し、浦戸城に入城します。
山内一豊の最期
一豊は土佐の大名となり
1603年、高知城を築城し、居城します。
しかしそのわずか2年後に
山内一豊は病死してしまいます。
享年61歳。
最後に
山内一豊とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
山内一豊について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。