水野勝成(みずの かつなり)は
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代初期までを生きた武将、大名です。
誕生時期:1564年9月20日
死亡時期:1651年5月4日
広島県「福山城」の
築城者でもあります。
水野勝成とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
水野勝成について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
目次
水野勝成とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
水野勝成の誕生日
室町時代の1564年9月30日に、
水野勝成は三河国刈谷(現・愛知県)で
水野忠重の子ども(長男)として誕生します。
水野勝成の幼名は「国松」です。
水野勝成の母親については
はっきりと明らかになっていませんが
都築吉豊の娘である妙舜尼が有力です。
水野勝成と徳川家康の関係について
水野勝成の父親である「水野忠重」の
お姉さんである於大の方(おだいのかた)が
なんとあの徳川家康の母親だとされています。
つまり水野勝成は徳川家康の
従兄弟(いとこ)に当たります。
水野勝成と高天神城の戦い
1579年の遠江高天神城攻めで
初陣を果たし、第二次高天神城攻めで
水野勝成は16歳にして首級をあげ、
織田信長から感状を賜っています。
1580年には父の忠重が刈谷の大名となり、
水野勝成は奥田城、細目城を任されます。
水野勝成と天正壬午の乱
時代が安土桃山時代に移った1582年
水野勝成は父「忠重」のもとを離れ、
徳川家康に仕えて天正壬午の乱、
1584年の小牧・長久手の戦いにも従軍します。
鬼武蔵として恐れられた森長可を
水野勝成の配下の者が討ち取ったり、
徳川家康の下で井伊直政と並び武勇を称されました。
水野勝成、父(忠重)に勘当される
水野勝成は、1584年の蟹江城合戦では
徳川家康の旗本衆と行動を共にします。
織田・徳川連合軍は
伊勢桑名で秀吉軍と戦います。
しかしこの陣中で、
水野勝成は父の忠重の寵臣である
富永半兵衛を斬り殺してしまいます。
半兵衛が水野勝成の不品行を忠重に
告げ口したことが原因といわれています。
これに忠重が激怒、水野勝成を勘当します。
しばらく徳川家康にかくまってもらい
清洲の寺に引きこもっていましたが、
その後各地を流浪したと伝わっています。
水野勝成は家出後、
仙石秀久や豊臣秀吉、佐々成政、
立花宗茂、黒田官兵衛、小西行長など
名だたる武将の下で全国を渡り歩き、
九州での合戦にも参加しています。
水野勝成の父親「水野忠重」が暗殺される
豊臣秀吉の死後、
徳川家康の仲裁により
水野勝成は父の忠重と
15年ぶりに和解します。
しかし1600年、
忠重は加賀井重望から
石田三成方(西軍)に誘われるも、
その誘いを断ったのため暗殺されてしまいます。
その後水野勝成は、
徳川家康より父の遺領(死後に残された領地)
三河国刈谷3万石の家督相続を命じられます。
以後水野勝成は、徳川家康の側近となります。
水野勝成と関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの時期
出陣の支度をしていた水野勝成ですが、
徳川家康の命により
大垣城の備えとされたため
本戦には参加しませんでした。
水野勝成は1614年、大坂の陣に
長男の勝俊(勝重)とともに参戦。
大坂夏の陣では
大和口の先鋒の大将として出陣し、
豊臣方の後藤又兵衛基次と激戦、
明石掃部助の軍勢を撃破など
数々戦功をあげ、大和国郡山6万石に転じます。
水野勝成と島原の乱
1638年、幕府から島原の乱鎮圧への
参加を要請された水野勝成は、
孫の勝貞を伴い幕府軍に加わります。
100人を超える戦死者が出ましたが、
原城を落城させるなど戦功をあげます。
水野勝成は当時75歳にも関わらず
参陣を指示されたのは、
勝成の戦歴を評価されていたことが分かります。
水野勝成、備後福山藩の初代藩主に
1619年、福島正則の改易に伴い
水野勝成は福山(現・広島県)10万石を賜ります。
そして水野勝成は福山入封後、
新たな城(福山城)と城下町を築きます。
他にも水野勝成は、
殖産に努めて藩政の基礎を築きました。
水野勝成の最期
1651年5月4日、水野勝成は
福山城内で亡くなります。享年88歳。
最後に
水野勝成とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
水野勝成について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきました。
少しでもお役にたてば幸いです♪