石川数正(いしかわ かずまさ)は
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代前期までを生きた武将・大名です。
誕生時期:1534年
死亡時期:1609年
長野県「松本城」の築城者は、
この石川数正だと伝わっています。
石川数正とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
石川数正について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
石川数正とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 石川数正の誕生日
- 石川数正と徳川家康
- 石川数正は内政、軍事でも活躍
- 石川数正、徳川家康から逃亡
- 石川数正、松本城の築城
- 石川数正の最期
石川数正の誕生日
1533年、石川数正は石川康正で
嫡男として三河国(現愛知県)で生まれます。
※石川数正の具体的な誕生日は不明です。
当時石川数正は、
松平家(当時の徳川の名)の家臣として仕えていました。
石川数正と徳川家康
1549年、松平元康(徳川家康)の
父である松平広忠がこの世を去ります。
そして松平元康(徳川家康)が
今川義元の人質として駿府の今川に赴く際、
歳が近いことなどから石川数正は近侍として同行します。
その流れで石川数正は、
松平元康(徳川家康)に仕えることになります。
1560年、今川義元の上洛戦に
松平元康に従い出陣しますが、
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、
松平元康(徳川家康)は独立します。
石川数正は内政、軍事でも活躍
1562年、石川数正は
織田信長と交渉を行い、
清洲同盟成立に大きく貢献します。
また翌年、三河一向一揆が起こると
父の康正は徳川家康を裏切ったと言われていますが
石川数正は浄土教に改宗して徳川家康に尽くしたといわれています。
石川宗家の家督は伯父の家成が
徳川家康の命令で継ぎましたが、
戦後に石川数正は徳川家康から
家老に任じられ、酒井忠次、
石川家成に次いで重用されるようになります。
また、軍事面においても活躍し
1570年姉川の戦い、
1572年の三方ヶ原の戦い、
1575年の長篠の戦いなど、
多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げます。
そして織田信長の死去、
信長の重臣であった豊臣秀吉が台頭すると、
石川数正は徳川家康の命令で
豊臣秀吉との交渉を担当します。
翌年の小牧・長久手の戦いにも参加し、
徳川家康に豊臣秀吉の和睦を提言したといわれています。
石川数正、徳川家康から逃亡
ところが1585年11月に、石川数正は突然
一族100人を引き連れて岡崎城を出て、
徳川家康の下から逃げ出し豊臣秀吉を頼りました。
理由ははっきりとされておらず
「秀吉から提案された条件に目がくらんだ」
「家康と不仲になった」などの
いくつかの説が考えられています。
石川数正は長い間、
徳川家康に仕えていた為、
徳川家の軍事的機密を知り尽くしており、
この出来事は徳川家康にとって大きな打撃でした。
その後、石川数正は
豊臣秀吉から8万石を与えられ、
豊臣秀吉の家臣として仕えます。
石川数正、松本城の築城
1590年の小田原討伐で北条氏が滅亡し、
徳川家康が関東に移ると、豊臣秀吉より
信濃国松本(現長野県)10万石に加増移封されます。
石川数正は松本に権威と実戦に備えた
雄大な松本城を築城します。
そして街道につないで流通機構の
ルートを掌握するための城下町の建設や
天守閣の造営など政治基盤の整備に努めます。
石川数正の最期
1592年、朝鮮出兵・文禄の役では
肥前国へ500騎を率いて
肥前名護屋に出陣しましたが、
その陣中で石川数正は亡くなります。
享年61歳。
最後に
石川数正とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
石川数正について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。