徳川家康のお城といえば
どんな城を思い浮かべますか?
75年生きたその生涯において
徳川家康はいくつもの城へ移っています。
この記事では
徳川家康が住んでいた城(居城)や
建てた城などについて紹介していきます。
徳川家康が住んでいた城(居城)や建てた城
徳川家康のお城について
以下の7つのお城を紹介していきます。
- 岡崎城(おかざきじょう)
- 今川館(いまがわやかた)
- 浜松城(はままつじょう)
- 駿府城(すんぷじょう)
- 江戸城(えどじょう)
- 名古屋城(なごやじょう)
- 二条城(にじょうじょう)
岡崎城【徳川家康のお城について】
徳川家康の最初の居城であり
産まれた場所が岡崎城(おかざきじょう)です。
岡崎城は徳川家康が生まれた城として有名です。
1959年には天守が3層5階建てに復興され、2006年には日本100名城に選定されました。
徳川家康の父「松平弘忠」は
今川氏に仕えていましたが
謀反によって殺されてしまい、10数年間
岡崎城は今川氏の支配下となります。
その後、桶狭間の戦いによって今川氏が滅亡し
独立した徳川家康が岡崎城に入城しました。
浜松城【徳川家康のお城について】
1570年頃から約17年間、
徳川家康は浜松城に住んでいたとされています。
世はまさに、大戦国時代。
徳川家康は浜松城を拠点として
様々な戦いを経験することに。
甲斐の国・武田信玄との領地争いの
拠点となったのもこの浜松城(はままつじょう)です。
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。
これは豆知識ですが
浜松城の元々の名前は
「曳馬城(ひくまじょう)」という名前でした。
しかし、馬を曳(ひ)くというのが
敗北につながり縁起が悪かったため、
この地とともに城の名前を浜松と改めたそうです。
江戸城【徳川家康のお城について】
江戸城(えどじょう)は、約250年も続いた
江戸幕府の拠点となった徳川家康のお城です。
江城(こうじょう)や千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれます。
本能寺の変によって織田信長が亡くなり
豊臣秀吉に仕えた徳川家康は、
豊臣秀吉から関東への移封を命じられます。
※移封(いほう):大名などを他の領地へ移すこと
徳川家康が入城した当初は
江戸城は小規模なお城でしたが、
次第に増築をし、最終的には
国内最大規模の面積を誇る城郭となります。
駿府城【徳川家康のお城について】
駿府城(すんぷじょう)は、徳川家康にとってとてもゆかりのあるお城です。
もともと駿府城は
今川氏の居城でした。
そのため、
徳川家康の父「松平弘忠」が
今川氏に仕えていた時代は、
徳川家康は人質として
この駿府城で幼少期を過ごしたそうです。
また駿河国を支配して
江戸へ移封となるまでの時代も、
徳川家康はこの駿府城に住んでいます。
そして江戸幕府を開いて、
将軍職を息子の徳川秀忠に譲り
大御所となってから亡くなるまでも、
徳川家康はこのお城で過ごしたとされています。
二条城【徳川家康のお城について】
徳川家康が関ケ原の戦い後に
京都の宿所として築城したのが
二条城(にじょうじょう)です。
一説だと京都の朝廷へのけん制のためと考えられています。
名古屋城【徳川家康のお城について】
徳川家康が天下統一の最後の布石として1615年(慶長20年)に建築したのが名古屋城(なごやじょう)です。
以降は徳川御三家の一つでもある
尾張徳川家17代の居城として
名古屋城は明治時代まで使われました。
1615年(慶長20)、徳川家康によって建てられた名古屋城。
黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備え、 城郭として国宝第一号に指定された名城でした。
引用:名古屋城公式ウェブサイト
最後に
この記事では
徳川家康が住んでいた城(居城)や
建てた城などについて解説しました。
■徳川家康のお城
- 岡崎城(おかざきじょう)
- 今川館(いまがわやかた)
- 浜松城(はままつじょう)
- 駿府城(すんぷじょう)
- 江戸城(えどじょう)
- 名古屋城(なごやじょう)
- 二条城(にじょうじょう)