吉川広家とは?何をした人?わかりやすく解説【山口県「岩国城」の築城者】

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アイデアと男
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史跡ポストカード『雪の岩国城』

 

吉川広家(きっかわ ひろいえ)
戦国時代(室町時代後期)から
江戸時代前期までを生きた武将です。

誕生時期:1561年
死亡時期:1626年

 

 

周防国岩国領初代領主で
山口県「岩国城」の築城者です。

 

吉川広家とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
吉川広家について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

吉川広家とは?

吉川広家 (シリーズ・織豊大名の研究4)

吉川広家の誕生日

1561年、吉川広家は
吉川元春と新庄局の三男として生まれます。

元春は毛利元就の次男
吉川家の養子となっていました。

 

幼少期は「うつけ」で父を嘆かせたという
逸話があり、礼儀作法がなっていないことを
注意されたという書状が残っています。

 

 

吉川広家、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の人質に

 

1583年、織田信長の死後に
天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ、吉川広家は人質として差し出されます。

しかしわずか1か月で帰国します。

 

 

吉川広家、家督を相続

1586年、11月に吉川広家の父・元春が、
次いで翌年6月に吉川広家の長兄の元長が相次いで死去します。

 

そのため吉川広家が吉川家の家督を相続し
居城日野山城などの所領も継承します。

 

同年には豊臣秀吉の命令で
肥後国人一揆のため出陣します。

 

 

1591年、出雲国、
伯耆国の一部と隠岐国を拝領し、
吉川広家は出雲国月山富田城に入城します。

吉川広家は文禄・慶長の役にも出陣し
碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて
秀吉から日本槍柱七本の一人と称賛されます。

 

1595年、伯父の小早川隆景が死没し
吉川広家は毛利家当主である毛利輝元の補佐役の筆頭になります。

 

 

 

吉川広家と関ヶ原の戦い

CGで大解剖! 激突 関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いでは、
豊臣家の家臣・安国寺恵瓊
毛利輝元に西軍石田三成方)
総大将になるよう依頼します。

 

しかし、吉川広家は
東軍徳川家康方)が勝利すると確信し
毛利輝元
を止めますが
すでに毛利輝元大阪城に入城し、
西軍の総大将に就任してしまいます。

 

 

これで西軍が負ければ
毛利家が滅亡すると危惧した
吉川広家は奇策を取ります。

それは毛利輝元や恵瓊に隠れながら
黒田長政を通じて徳川家康に内通するのです。

 

途中で徳川方に寝返ることを条件に
毛利家の領土を据え置くことを願い出ました。

 

 

吉川広家 「弁当を食べているから」

戦になると吉川広家は
西軍からの出撃要請も
霧が濃い」と言って拒否をし、
総攻撃の命令をされても
弁当を食べているから」と言って
吉川広家は動かずに時間を稼ぎます。

結果は徳川家康率いる東軍の勝利となり
毛利家は戦わずして戦場を離れます。

 

 

 

戦後の毛利家

戦後は
毛利家の領地安堵の約束が取り消され
中国10か国は没収されます。

そして毛利輝元は改易という重い罰を、
吉川広家には周防国と長門国を
与えるという知らせが届きます。

これに対して吉川広家は
その2か国は毛利家に与えてほしいと
徳川家康に嘆願して、認められます。

 

毛利家は、多くの領土は
没収されてしまいましたが、
吉川広家の働きによって毛利家の滅亡は免れました。

 

 

吉川広家、岩国城を建てる

日本の城 41号 (岩国城) [分冊百科]

毛利輝元は吉川広家に
周防国の岩国3万石を与えます。

1608年、吉川広家は
現在の山口県に岩国城を築城します。

 

そして岩国分国法を制定し、
岩国の開発に尽力します。

 

1625年、吉川広家は死去しました。

享年65歳。

 

最後に

戦国大戦 毛利032 R吉川広家

 

吉川広家とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
吉川広家について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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