南光坊天海(なんこうぼうてんかい)は
戦国時代(安土桃山時代)から
江戸時代初期の天台宗の僧です。
実はこの人物、正体はあの
明智光秀だったのではないか!?と
ひそかにささやかれているのです。
この記事では
南光坊天海とはどんな人物かを
明智光秀との関係などを意識しながら
簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
南光坊天海とはどんな人?
南光坊天海(なんこうぼうてんかい)は、
1536年から1643年まで生きていた
会津(現・福島県)の人物だとされています。
100歳以上生きたということなので
本当なら当時ではかなりご長寿ですね。
南光坊天海は11歳で出家して
14歳で比叡山に登り、その後
三井寺や興福寺で諸宗を学びます。
南光坊天海は江戸時代のはじめ、
徳川家康、徳川秀忠、徳川家光に
仕えたことで有名な人物です。
特に、徳川家康の懐刀といわれ、
江戸幕府の宗教行政の中心人物でした。
徳川家康の死後には、家康を久能山から
日光山に東照大権現として改葬しています。
1571年延暦寺が織田信長の焼き討ちにあうと、
南光坊天海は山門の衆徒をひきつれ、
甲斐の武田信玄のもとに身を寄せたと言われています。
南光坊天海の正体は明智光秀!?
明智光秀は本能寺の変の後、
山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れます。
逃げる途中で落ち武者狩りにあい、
明智光秀は亡くなったと言われています。
しかし、その明智光秀の運命には、
別の真実があったのではないか?
という説が考えられているのです。
なぜそのように説が生まれたのか?
次の理由が挙げられます。
以下で簡単に解説していきます。
地名の名付け親【南光坊天海と明智光秀】
南光坊天海と明智光秀が同一人物であったと
考えられる理由として有名なのが、地名です。
日光に”明智平”という場所があり、
この地は南光坊天海が名付けたと言われています。
同じ家紋(桔梗紋)【南光坊天海と明智光秀】
南光坊天海と明智光秀の共通点で
桔梗紋を使用していたことも挙げられます。
日光東照宮にある像に
明智光秀が使っていた桔梗紋を用いているのです。
南光坊天海は徳川家康に仕えていたのに
家紋として桔梗紋を使用していたのは、謎が残りますね。
ちなみに徳川家康の家紋は
水戸黄門でもおなじみの葵紋(あおいもん)です。
筆跡が似ている【南光坊天海と明智光秀】
南光坊天海と明智光秀が
同一人物と考えられているのには、
筆跡が似ていることもあるのです。
しかし、史料で比べてみると
すごく似ていると言う専門家もいれば
まったく似ていないと考える人もいるようです。
亡骸(なきがら)がない【南光坊天海と明智光秀】
明智光秀が山崎合戦の後に
亡くなったと騒がれた際に、
明智光秀の首が探されました。
百姓によって発見された明智光秀の首は
夏の暑さなどで腐敗も進んでいて
顔面の皮膚がはがされたものだったそうです。
つまり当時、
明智光秀の首という確証がないまま、
死んだということにされたのです。
最後に
この記事では
南光坊天海とはどんな人物だったのか
正体は明智光秀だったのか?などを解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。