平田篤胤ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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再発見 日本の哲学 平田篤胤 霊魂のゆくえ (講談社学術文庫)

 

平田篤胤(ひらた あつたね)とは
江戸時代を生きた国学者です。
※神道家、思想家、医者でもあります。

誕生時期:1776年10月6日
死亡時期:1843年11月2日

 

死後の世界や、神話的宇宙論など
超自然的な分野の研究を行った人物です。

 

平田篤胤とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
平田篤胤について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

平田篤胤ってどんな人?

平田篤胤 知のネットワークの先覚者 別冊太陽

平田篤胤の誕生日

平田篤胤(ひらた あつたね)は
1776年10月6日(安永5年8月24日)
出羽久保田(現在の秋田県)藩の大番頭の
大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として誕生します。

 

平田篤胤の幼少期については
あまり詳しく分かっていませんが
満足に勉強ができず、父とも不仲だったと伝わっています。

 

平田篤胤と養子

20歳のときに平田篤胤は脱藩し、
行方をくらまし、江戸に向かいます。

ほぼ無一文の状態で家を出た為、
雑用などをこなす下男として働きつつ
学問を始めたようです。

 

そして平田篤胤が25歳のときに
備中松山藩士で山鹿流兵学者であった
平田篤穏(あつやす)の目に留まり、養子となります。

そして翌年1801年には
駿河沼津藩士の娘の織瀬と結婚します。

 

平田篤胤と本居宣長

日本の古典を研究した国学者である
本居宣長の存在を知った平田篤胤は、
複数の本居宣長の著書を読んで
独学で本居派国学を学びます。

 

平田篤胤は本居宣長に入門しようと
しますが、すでに亡くなってから
2年の時が経過していました。

そのため、平田篤胤は本居宣長の
長男である本居春庭に入門します。

 

平田篤胤は30歳のときに、塾を開き
1803年には本居派の立場から
太宰春台の「弁道書」を批判する
『呵妄書』で学会デビューを果たします。

 

平田篤胤と『霊能真柱』

その後も、塾を開きながら
多くの著書を出版し続けます。

中でも”霊”の行方を書いた
霊能真柱(たまのみはしら)』は本居宣長の
最も弱い部分である狂信的な神話の部分を
誇張した別の説として、波紋を呼びました。

この著書は、平田篤胤独自の考えが
明確に現れていて、それ以降の平田学の
展開方向を決定した重要なものとなったのです。

 

平田篤胤と天狗少年

また平田篤胤は、1820年に
江戸で「天狗小僧寅吉」と名乗る
少年を養子として迎え入れています。

寅吉は神様や仙人の世界で呪術の修業を
受けて、人間界に帰ってきたと言います。

かねてから、平田篤胤は
異界や冥界の世界を信じていた為、
この少年を養子にしたそうです。

2年後には天狗少年から聞き出した
冥界や幽冥の世界の様子をまとめた
仙境異聞』という著書まで出版をしています。

 

平田篤胤と江戸追放

しかし1841年に、平田篤胤は
江戸幕府の暦制を批判した
天朝無窮暦』を出版したことで、
故郷の秋田へ帰るように命じられます。

さらに、それ以降の著書の出版も
禁止されるという罰を受けます。

 

平田篤胤の最期

秋田に戻った平田篤胤は、
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)
失意のうちに亡くなります。享年68歳。

 

最後に

魂のゆくえ―平田篤胤『再生記聞』を読む

 

平田篤胤とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
平田篤胤について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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