謎多き「東洲斎写楽」ってどんな人?代表作品は?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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「東洲斎写楽」考証

 

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
江戸時代を生きた浮世絵師です。

 

東洲斎写楽は
約10か月の活動期間の後、
こつ然と姿を消した謎多き天才絵師

 

東洲斎写楽とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
東洲斎写楽と代表作品について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

東洲斎写楽ってどんな人?

東洲斎写楽 (新潮日本美術文庫)

東洲斎写楽の誕生日

東洲斎写楽は
誕生日、出生地、経歴などが
すべて分かっていません。

ただし、近年の研究の結果では
1763年から1820年の57年間生きた
阿波国(徳島県)蜂須賀家お抱えの能役者
斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)
とする説が有力になっています。

一説では「東洲斎」を並び替えると
斎、東、洲(さい、とう、じゅう)
読めると言われています。

 

東洲斎写楽と10か月の活動期間

東洲斎写楽が浮世絵師として活躍したのは、
1794年(寛永6年)から1795年(7年)にかけてです。

東洲斎写楽は、約10か月の期間内に
およそ145点余りの作品を刊行します。

 

東洲斎写楽は、主に
歌舞伎役者の似顔絵を描いた役者絵
力士の似顔絵や土俵入りなどを描いた
相撲絵などの浮世絵を手がけました。

 

また、その似顔絵に関しても
東洲斎写楽は忠実に描くのではなく
デフォルメを効かせた画法が特徴です。

 

目のシワや鼻、口の形など
顔の特徴を大げさに強調、誇張して
ダイナミックに描いたのです。

 

しかし彼の絵は当時の人々には
斬新すぎてしまったようで、あまり
受け入れてもらえなかったそうです。

 

また、東洲斎写楽の浮世絵の
版元はすべて有名な出版業者である
蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)です。

 

10か月の制作活動の末、
東洲斎写楽はこつ然と姿を消します。

 

なぜ、短期間の制作活動であったのかは
いまだに分かっておらず、謎のままです。

 

東洲斎写楽の代表作品

東洲斎写楽

ここでは
東洲斎写楽の代表作品
紹介していきます。

  • 市川鰕蔵の竹村定之進
    (いちかわえびぞうのたけむらさだのしん)
  • 三世大谷鬼次の奴江戸兵衛
    (さんせいおおたにおにじのやっこえどべえ)

これらの作品について
以下で簡単に解説します。

 

市川鰕蔵の竹村定之進【東洲斎写楽の代表作品】

カプセルQミュージアム 日本切手立体図録 [3.市川鰕蔵の竹村定之進](単品)

 

市川鰕蔵の竹村定之進』は
東洲斎写楽が描いた
木版多色刷りの大判錦絵です。

 

1794年に上演された
恋女房染分手綱」の一場面である
「道成寺」の主役の竹村定之進を描いています。

 

東洲斎写楽の最高傑作といわれ、
国内外で高く評価されている作品です。

 

三世大谷鬼次の奴江戸兵衛【東洲斎写楽の代表作品】

KINOWA 「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」 木はり絵 オリジナル キット & 額縁 セット 浮世絵 写楽 日本製

 

三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』は
東洲斎写楽の木版多色刷りの錦絵です。

こちらも「恋女房染分手綱」の中で
三世大谷鬼次が演じた「奴江戸兵衛」を描いています。

 

黒い雲母(うんも)を用いた背景に
上半身のみを描いた大首絵(おおくびえ)で、
誰もが一度は見たことのある絵画ではないでしょうか。

※雲母=真珠光沢のある造岩鉱物。

 

最後に

東洲斎写楽はもういない

東洲斎写楽とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
東洲斎写楽と代表作品について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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