円山応挙ってどんな人?代表作品は?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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太陽と謎の男性
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円山応挙論

 

円山応挙(まるやまおうきょ)
江戸時代を生きた絵師です。

誕生時期:1733年6月12日
死亡時期:1795年8月31日

 

円山派の祖」で、日本伝統の装飾画法に
写生様式を加えた新しい画風を確立しました。

 

円山応挙とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
円山応挙や代表作品について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

円山応挙ってどんな人?

もっと知りたい円山応挙―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

円山応挙の誕生日

円山応挙(まるやま おうきょ)は
1733年6月12日(享保18年5月1日)
丹波国(現在の京都府)で農村の次男として誕生。

 

少年時代の詳細は残っていませんが、
10代後半には京へ出て絵の修行をします。

狩野探幽の流れを引く鶴澤派の画家である
石田幽汀(いしだゆうてい)に弟子入りします。

 

円山推挙の眼鏡絵

絵の修行をするかたわらで
円山応挙は京都の玩具商に勤めており、
そこでオランダから輸入した「眼鏡絵」を見ます。

 

眼鏡絵とは、凸レンズの眼鏡を通して
見るために透視図法で描かれた絵のことです。

 

円山応挙は京都風景の眼鏡絵を制作して
西洋画の透視図法を習得します。

 

円山応挙と円山派の祖

さらに円山応挙は、
中国で用いられている写生画を研究します。

そして当時の日本の伝統的な装飾画法と
写実性とを融合した新しい様式を確立し
「円山派の祖」となったのです。

 

また円山応挙は、
「龍」のような空想上の動物でさえも
まるで本物を見たことがあるかのように
動きや息遣いまでも忠実に表現しました。

 

一説では「足のない幽霊」を
描き始めた画家ともいわれています。

 

円山応挙の最期

円山応挙は
1795年8月31日(寛政7年7月17日)
亡くなります。享年63歳。

 

円山応挙の代表作品

円山応挙: 日本絵画の破壊と創造 (別冊太陽 日本のこころ)

ここでは
円山応挙の代表作品
紹介していきます。

  • 雪松図屏風
  • 藤花図屏風

これらの作品について
以下で簡単に解説します。

 

雪松図屏風【円山応挙の代表作品】

 

雪松図屏風』は国宝であり、
円山応挙の最高傑作とされています。

一面の雪の中にきらめく光を照り返す
松の姿を、墨と金泥で美しく描いています。

 

円山応挙の代表的な表現技法といえる
輪郭線を使わずに墨の濃さだけで
立体感を表現する「付立(つけた)」も用いています。

 

現在は三井記念美術館に保管されています。

 

藤花図屏風【円山応挙の代表作品】

重要文化財の『藤花図屏風』は
根尾美術館に保存されています。

円山応挙が44歳の頃に制作したもので
付立ての表現技法を用いています。

また、華麗な印象を与える色彩表現や
複雑に絡み合う立体的な幹の造形などは
円山応挙の写実様式の真骨頂を示しています。

 

最後に

至宝大乗寺―円山応挙とその一門

 

円山応挙とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
円山応挙や代表作品について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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