細川ガラシャの子ども「細川忠利」とは?

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細川忠利(ほそかわただとし)は
細川ガラシャの子どもで
のちの豊前小倉藩の第2代藩主であり、
また肥後熊本藩の初代藩主にもなります。

この「細川忠利」がどんな人物であったのか、
忠利の生涯についてこの記事で詳しくまとめました。

 

細川忠利とは?

生い立ち

細川忠利は
父が細川忠興、母がガラシャ(明智玉)で、
細川家の三男として
1586年(天正14年)11月11日に誕生しました。

幼少期は「光千代」という名で育ちます。

もともと体が病弱であった忠利は
ガラシャがキリスト教を信仰していたことから
健康の為に洗礼を受けさせていたと伝えられています。
※洗礼とは、教会内に設けられた水槽などで体を清める行為

 

藩主となる

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、
細川家の跡継ぎであった長男忠隆が廃嫡されます。
※廃嫡とは、家を継ぐ相続権を廃されること

そのころ、
江戸へ人質に出されていた忠利は
第2代将軍徳川秀忠の信頼を得ていたため、
1604年(慶長9年)18歳の時に細川家の跡継ぎとなりました。

そして1608年(慶長13年)、
秀忠の養女の千代姫(保寿院)と縁組し、
翌年に豊前国中津城へ嫁いできます。

1619年(元和5年)には
長男光利(のち光尚)が誕生しました。

その翌年1620年(元和6年)に
父の忠興から家督を譲られ、
豊前小倉藩の第2代藩主となります。

 

1632年(寛永9年)には
肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、
その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封します。
※改易とは、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収すること

忠利は肥後熊本藩の初代藩主となり
熊本城へ入城し、
父の忠興は隠居所として八代城へ入りました。

 

1637年(寛永14年)、
島原の乱に参陣した際には
家臣が天草四郎を討取るなど功績を挙げます。

しかし
その4年後の1641年(寛永18年)、
体の弱かった忠利は享年55歳で
父忠興よりも先に亡くなりました。

その後、
細川家の家督は長男の光利(光尚)が継いでいます。

 

細川忠利の人物像

細川忠利は
細やかに心遣いできる優しい人物であったとされています。

細川家を継ぐ前まで
江戸で人質となっていた忠利は、
戦いでの功績がない自分が兄2人を差し置いて
跡継ぎとなったことを気にしていたそうです。

今考えると、
忠利の気遣いがあったからこそ
妻の実家の徳川家や父忠興との間は
良好な関係を保つことができたのかもしれません。

そんな気遣いのできる性格もあって
幕府からも信用されており、
のちに熊本藩を任されたようになりました。

しかし、外様大名でありながら
幕府側の代理者としての役割もあったため、
他の大名からは疎まれていたとされています。

 

最後に

細川忠利は
父が忠興、祖父が幽斎(藤孝)と
代々継がれる細川の家督を立派に継ぎました。

幼いころから体が弱かったため
母ガラシャから心配をされながらも
武芸に励んでおり、
剣術においては特に優れていたとされています。

 

忠利は亡くなるまで熊本藩主として務め、
第3代将軍徳川家光は
死ぬのが早すぎたと嘆き悲しんでおり、
忠利を信頼していたことがうかがえます。

 

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