武田観柳斎ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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新選組外伝 分冊版3 武田観柳斎

武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)
幕末期(江戸時代後期)を生きた
新撰組の五番隊組長です。

誕生時期:不明
死亡時期:1867年6月22日

 

この記事では
武田観柳斎とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを紹介していきます。

 

武田観柳斎とは?何をした人?【生涯をざっくりわかりやすく解説】

新歴史浪漫 新撰組池田屋騒動 ⑨武田観柳斎(単品)

武田観柳斎の誕生日

武田観柳斎は1830~1835年頃に
生まれたと推測されていますが、
生年は分かっていません。

 

武田観柳斎の本名は福田廣(ふくだひろし)
出雲国松江藩の支藩である
母里藩(もりはん)医学生でした。

 

後に江戸へ行き、福島伝之助に
甲州流軍学(もしくは長沼流)を学びます。

甲斐の武田氏にちなんで
姓を武田と名乗っていたようです。

文武ともに優秀であったと言われています。

 

新撰組の五番隊組長および文学師範

1863年に滋賀右馬允の斡旋によって
武田観柳斎は新選組に入隊します。

 

新撰組初期の軍事演習では
軍師として活躍していたそうです。

甲州流軍学を修めた軍学者と隊士との
文武両面で近藤勇に重用されます。

 

翌年に武田観柳斎は副長助勤にも抜擢されたのち、
五番隊組長および文学師範の地位に就きます。

 

池田屋事件でも活躍

同年7月に起きた池田屋事件でも
武田観柳斎は活躍しています。

 

武田観柳斎は古高俊太郎の捕縛して
尊王攘夷志士の不穏な動きをつかみます。

当日は近藤勇らと共に第一陣として池田屋に駆け付け、その功績として褒賞金20両を賜ります。

 

新撰組を脱退

その後、江戸幕府が最新の
フランス式兵制を取り入れると
甲州流軍学が時代遅れとなります。

これにより武田観柳斎の新撰組内での
立ち位置は微妙なものとなっていきます。

 

後に武田観柳斎は倒幕思想に傾いていき
局長の近藤勇の方針に疑問を抱いていきます。

そして近藤と対立する御陵衛士を結成した
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)に接触を試みますが、失敗。

 

新撰組に戻ることもできなくなった武田観柳斎は、近藤に除隊を願い出て新選組を脱退します。

 

武田観柳斎の最期

武田観柳斎は、新撰組脱退後に
密かに討幕派の薩摩藩との接触を企てていました。

 

しかし、この武田の行動は
近藤や土方歳三らにバレていたのです。

 

1867年7月23日(慶応3年6月22日)、
武田観柳斎は京都郊外の鴨川銭取橋にて
新選組に襲われて暗殺されます。

実行犯は斎藤一や篠原泰之進と
言われていますが真偽は不明です。
享年30歳~35歳ほどであったと考えられています。

 

武田観柳斎ってどんな人?

薄桜鬼 真改 13 武田観柳斎 キャラミニタペストリー

武田観柳斎は、
文武ともに優秀であったと伝えられています。

さらに話し上手ということでしたが
新撰組内での立ち振る舞いは、近藤勇や
土方歳三に対する媚びへつらう様子があからさまで、永倉新八らは目の敵にしていたそうです。

 

 

最後に

薄桜鬼 真改 13 武田観柳斎 キャラミニタペストリー

この記事では
武田観柳斎とはどんな人だったのか
何をした人だったのかを紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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