神仏分離令とは何か?【簡単にわかりやすく解説】

WRITER
 
悲しそうな仏像
この記事を書いている人 - WRITER -

廃仏毀釈異聞

 

神仏分離令(しんぶつぶんりれい)
明治時代に出された命令です。

 

神仏分離令によって、各地では
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こります。

 

神仏分離令とは何か?
どのような命令だったのか?などなど
神仏分離令について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

神仏分離令とは?

カミとホトケの幕末維新 (龍谷叢書)

神仏分離令とは、
1868(明治1)年3月に明治政府が出した令で
古来以来の神仏習合を禁じたことです。

 

神仏習合とは、日本固有の神の信仰と
外来の仏教信仰を融合、調和させる
考え方のことです。

 

日本では奈良時代から
神仏習合の習慣が続いてきました。

奈良時代には神社内に神宮寺が作られたり
平安時代には日本の神と仏教の仏をそれぞれ
結びつける本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)
唱えられたりしています。

 

明治政府は、
この神仏習合の考え方をやめて
神道と仏教との区別を明確にしよう
とする宗教政策を行ったのです。

 

また一部の国学者の指導のもと、外来の
宗教である仏教は国教にふさわしくないとして
それまで特権を持っていた仏教関係者の
財産や土地をはく奪しました。

 

神仏分離令の目的

江戸時代中頃に、国学と呼ばれる
学問が盛んになります。

古典の研究をしていた国学者の
本居宣長や賀茂真淵らは、仏教や儒教が
影響を持つ以前の日本の姿を考えたのです。

 

国学者らは外来からの影響を受ける前の
日本を取り戻すべきだと主張します。

特に平田篤胤は日本固有の古代の神の
道を説く復古神道を提唱しています。

 

この考えは江戸時代後期の
尊王攘夷派の志士たちに強い影響を与え、
神仏分離の思想が盛んになったのです。

 

そして尊王攘夷運動が起こり、
日本は明治維新へつながることとなります。

 

明治政府は「復古神道」という思想が
王政復古まで推し進めたのだと考えます。

これにより明治政府は
神道(しんとう)国教とすることを目指したのです。

 

神仏分離令の影響

廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち (みやざき文庫20)

神仏分離令の実施により、
各地で過激な廃仏毀釈運動が起こります。

廃仏毀釈とは寺院や仏像、
仏具などを破壊することです。

 

明治政府は明治5年に神仏分離令を停止します。

しかしわずか5年の間に、多くの貴重な
仏教建築物が被害を受けてしまいました。

 

また、僧侶の中には
政府の指導で俗世に戻る者や、
神職へ転向する者などもいたそうです。

 

最後に

邪教/殉教の明治―廃仏毀釈と近代仏教

神仏分離令とは何か?
どのような政策だったか?などなど
神仏分離令について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.