島津忠恒(島津家久)とは?何をした人?わかりやすく解説【鹿児島県「鹿児島城」の築城者】

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島津家久に学ぶ「軍法戦術に妙を得る仕事術」10分で読めるシリーズ

島津忠恒(しまづ ただつね)は
安土桃山時代に誕生し
江戸時代を生きた武将です。

誕生時期:1576年11月
死亡時期:1638年4月7日

 

 

鹿児島県「鹿児島城」の築城者は
この島津忠恒(島津家久)だと伝わっています。

 

島津忠恒は、後に名前を
島津家久(いえひさ)に改名します。

注意点ですが、
「島津家久」という名前の武将は2人います。
島津忠恒(島津家久)の叔父に
島津家久という名前の武将がいます。

同じ名前の叔父と区別のために
島津忠恒(島津家久)は島津家久ではなく、
島津忠恒で呼ばれることが多いです。

島津忠恒とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
島津忠恒について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

 

島津忠恒(島津家久)とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

島津家久と島津豊久 (人物文庫)

島津忠恒(島津家久)の誕生日

島津忠恒(島津家久)は
1576年11月に、島津義弘の三男として生まれます。

 

通称は島津又八郎

母は園田実明の娘の実窓夫人です。

 

伯父・島津義久に男児がいなかった為
島津家は父・義弘が継いだが、
長男が若くして死去、次兄・島津久保
朝鮮で病により亡くなった為、
又八郎(島津家久)が豊臣秀吉の指名により後継者となります。

又八郎(島津家久)が後継者となる前は、
蹴鞠と飲酒に溺れる日々で、
朝鮮出兵中の父からも書状で
注意を受けていた程でした。

 

 

 

島津忠恒(島津家久)と慶長の役、泗川の戦い

文禄・慶長の役―東アジアを揺るがせた秀吉の野望 (歴史群像シリーズ 35)

又八郎(島津家久)は
後継者になってからは
父や伯父たち同様に優れた武勇を発揮します。

1598年長の役泗川の戦いでは
父・義弘に従い、8,000の少数兵で
4万の明軍を破る猛威を見せています。

明人・朝鮮人は
その島津家久の猛威に対し
(おそ)ろしのしまんず」と
云ったといわれています。

ただ、態度や性格が治ったわけではなく
朝鮮の役でも家久の横暴に苦しんだ
雑兵が朝鮮側に逃亡したという記録があります。

 

 

島津忠恒(島津家久)、家督を相続

1599年、島津家久は
義久より家督を相続します。

 

そして、豊臣秀吉の死後、
島津家久は伏見で伊集院忠棟を自らの手で殺害します。

 

その後、
伊集院忠真らの庄内の乱を鎮圧させ
1602年、日向国の野尻で催した
狩りの最中に射殺し、他の共犯者も抹殺します。

 

1600年に起こった関ヶ原の戦いでは
西軍方となった父・義弘の弁護に努め、
1602年に徳川家康から領国を安堵されます。

同年、薩摩の内城に入りますが、
実権は1619年までは父・義弘に握られていました。

 

 

 

島津忠恒(島津家久)、鹿児島城を築城

鹿児島の島々─文化と社会・産業・自然─

1606年に島津忠恒(島津家久)は、
徳川家康から諱を受け、家久と名乗ります。

 

1609年、3,000の軍勢を率いて
琉球に出兵し、占領して付庸国とします。

また、明とも密貿易を執り行い、
鹿児島城(鶴丸城)を築いて
城下町の整備なども行います。

 

他にも島津忠恒(島津家久)は
外城制や門割制を確立するなど
薩摩藩の基礎を固める一方で、
幕府に対しては妻子をいち早く送って
参勤交代の先駆けとしました。

 

 

島津忠恒(島津家久)の最期

1613年、
奄美群島を琉球に割譲させ
代官や奉行所などを置き、
薩摩藩の直轄地とします。

1617年、将軍徳川秀忠から
松平の名字を与えられ、薩摩守に任官されます。

 

1638年、島津忠恒(島津家久)は亡くなります。享年62歳。

 

最後に

島津家久と島津豊久 (人物文庫)

 

島津忠恒(島津家久)とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
島津忠恒(島津家久)について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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