自由民権運動とは何か?中心人物は誰?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)は
明治時代に行われた政治活動、社会運動です。
旧士族や農民らが中心になり
国民の自由と権利を求めました。
自由民権運動とは何か?
中心人物は誰だったのか?などなど
自由民権運動について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
自由民権運動とは?
自由民権運動とは、1874(明治7)年の
民選議院設立建白書の提出を契機に
国会の開設や憲法の制定などを
明治政府にもとめた国民運動です。
はじめは不平士族を中心に行われましたが
次第に商工業者や地主、知識人らが
参加するようになり、全国的に広がったのです。
自由民権運動の中心人物
自由民権運動を行った
中心人物は板垣退助です。
自由党懇親会の演説の最中に
暴漢に襲われた際の名言は有名ですよね。
『板垣死すとも、自由は死せず』
1873年に明治六年の政変が起こり、
征韓論にて敗れた板垣退助や西郷隆盛、
江藤新平などは明治新政府を去ります。
その後、江藤新平は佐賀の乱に参加、
西郷隆盛は西南戦争の中心人物となります。
一方の板垣退助は
武力ではなく言論で政府への訴えを
行うことにします。
それが
後藤象二郎らと共に明治政府に提出した
民選議院設立建白書の提出であり
自由民権運動の始まりとなったのです。
民選議院設立建白書とは
国民が選んだ議員が政治を進めるべきだ
という申し入れです。
自由民権運動の背景
明治維新後、明治政府は
薩摩藩と長州藩の出身者を中心に
政治が行われます。
これは反政府側からは
藩閥政治と呼ばれ批判されていました。
またこの頃には、
福沢諭吉らが紹介した西洋の自由思想が
日本国内でも広がりつつあったのです。
そのため、板垣退助らが提出した
民選議院設立建白書は新聞にも
掲載され、日本で大きな反響を呼びます。
そして次第に日本中から
国会開設を求める運動が広まることとなったのです。
自由民権運動の影響
明治政府は、言論や出版、
集会などを厳しく取り締まって
自由民権運動を弾圧します。
しかし
北海道開拓使官有物払い下げ事件で
政府への批判がさらに高まります。
そこで明治政府は1881年、
10年後の国会開設を約束したのです。
自由民権派の人々は国会開設に備えて
大隈重信らは立憲改進党を結成、
板垣退助は自由党を結成します。
そして憲法の草案を発表するなど
引き続き藩閥政治を攻撃し続けました。
最後に
自由民権運動とは何か?
中心人物は誰だったのか?などなど
自由民権運動について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。