明智光安とは?明智光秀との関係は?

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「明智光安(あけち みつやす)」
という名を知っていますか?

明智光安と明智光秀とは
どのような接点や関係があったのか?

 

この記事では
明智光安について
詳しく解説していきます。

 

明智光安(あけちみつやす)とは?【明智光秀との関係も解説】

明智光秀の城郭と合戦 (図説 日本の城郭シリーズ13)

室町時代の1500年頃、明智光安は
美濃の明智長山城の城主であった
明智光継の子ども(三男)として誕生します。

明智光安の兄さんは
明智光秀の父親「明智光綱」です。

 

つまり、明智光安は
明智光秀の叔父(おじ)にあたります。
※叔父:父や母の兄弟

 

明智光安と明智光秀の父「明智光継」

明智長山城の城主「明智光継」が隠居すると
兄の明智光綱が家督を継ぐこととなりました。

  • 明智光継:明智光安と明智光綱の父
  • 明智光綱:明智光安の兄、明智光秀の父

しかし、その後明智長山城が攻められ
若くして明智光綱は討死したそうです。

明智光綱の子である明智光秀
その頃まだ幼かったとされています。

そのため、叔父である明智光安が
明智光秀の世話をするようになったようです。

 

やがて明智光秀は成人を迎えましたが
明智光秀は家督の相続を遠慮したとされ、
そのまま明智光安が城主を担っていました。

 

1547年には室町幕府の将軍である
足利義晴に謁見(えっけん)しており、
従五位下兵庫頭の位階を授かります。
■謁見(えっけん):目上の人に会うこと。

戦国時代(室町時代後半)の1553年に
明智光安は出家し法名を「宗寂」としています。

 

明智光安の最期

明智光安は美濃の戦国領主の
斎藤道三の親戚という立場であったため、
この斎藤道三に仕えていました。

やがて、
斎藤道三斎藤義龍
対立するようになります。

明智光安は引き続き
斎藤道三に味方するも
1556年(弘治2年)に斎藤義龍
それに加担する稲葉良通らに敗れて
斎藤道三は討ち死にしてしまいます。

 

このとき、明智光安と
弟の光久や三宅氏・藤田氏、
妻木城主の妻木氏らと共に
明智長山城に立てこもり、
斎藤義龍らの侵入を何とか防ごうとします。

しかし、奮闘するも
斎藤義龍に味方する
揖斐光就・長井道利らの攻撃を受け、
明智光安は光久らと共に自害したとされています。

 

この際、明智光安の子とされる明智秀満
明智光秀を託して城から脱出させたため、
明智光秀は生き延びることができたとされています。

 

明智光安のもう一つの顔?!

 

明智光安は美濃明知城主の遠山景行と
同一人物であったという説があります。

明治時代に阿部直輔によって書き写された
「恵那叢書(鷹見弥之右衛門著)」によると、
美濃出身で織田信長の家臣であった
明智光秀の叔父光安は景行であると記されています。

その説によれば
景行は明智光継の三男として生まれ、
明知遠山氏を継いだとしています。

また、景行は出家したのち
「宗叔」と名乗っています。

明智光安も出家後に
「宗寂」と名乗っているため
類似しているとされています。

 

最後に

歴史REAL明智光秀 (洋泉社ムック 歴史REAL)

明智光安(あけち みつやす)は
明智光秀の伯父の立場として
幼い明智光秀の代わりに
立派に明智長山城を守った。

そして、城を守り抜くだけでなく、
明智光秀を必死に守ってくれた。

明智秀光は幼いころに
父の明智光綱を亡くしているため、
もしかしたら明智光安が
父親代わりをしていてくれたかもしれませんね。

ただ、そもそも明智光秀の父親
明智光綱ではない可能性もあります。笑

 

明智家についてはわからないことが多く、
明智光秀の出身自体も謎が多いままなのです。

 

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