柴田勝豊とは?何をした人?わかりやすく解説【福井県「丸岡城」の築城者】

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柴田勝豊(しばたかつとよ)
室町時代の末期から安土桃山時代にかけての武将です。

誕生時期:1556年
死亡時期:1583年4月16日

 

 

福井県「丸岡城」の
築城者としても有名です。

 

 

柴田勝豊とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
柴田勝豊について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

柴田勝豊とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

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  • 柴田勝豊の誕生日
  • 柴田勝豊、柴田勝家の養子に
  • 柴田勝豊、丸岡城を築城
  • 柴田勝豊、長浜城の城主に
  • 柴田勝家から秀吉への寝返り
  • 柴田勝豊の最期

柴田勝豊の誕生日

柴田勝豊は、柴田勝家の家臣である
吉田次兵衛の子として生まれます。

 

また、父が渋川八左衛門で、後に
吉田次兵衛の養子になったという説もあります。

 

幼名は伊介
生誕月日は分かっていません。

生母は柴田勝家の姉であることから、
柴田勝家の甥にあたります。

 

 

柴田勝豊、柴田勝家の養子に

伯父、柴田勝家が織田信長を廃し
信長の弟・織田信行を当主にしようと
林通勝らと稲生の戦を起こしますが、敗北します。

このことにより、柴田勝家は
織田信長に仕え、筆頭家老となります。

 

その後、柴田勝家に実子がいなかったため
柴田勝豊は柴田勝家の養子となります。

 

 

柴田勝豊、丸岡城を築城

日本の城 61号 (丸岡城) [分冊百科]

 

1575年、伯父柴田勝家が
越前国(現在の福井県)の49万石の
支配を任され、北ノ庄城主となります。

1576年、柴田勝豊は柴田勝家の持つ4万5000石を
譲り受け、北野庄城の支城となる
丸岡城を築城し、城主となります。

 

 

柴田勝豊、長浜城の城主に

1581年、織田信長の京都御馬揃え
柴田勝家とともに上洛して参加します。

しかし翌年、
本能寺の変が起き、信長が自害します。

 

6月に行われた清洲会議によって
柴田勝豊は、柴田勝家の所領となった
近江・長浜城の城主となります。

そのとき、丸岡城には
安井家清(佐久間盛政の家老)が入城します。

 

 

 

柴田勝家から秀吉への寝返り

 

1582年12月、賤ケ岳の戦いの前に
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が5万の大軍をもって長浜城を包囲します。

 

そこで大谷吉継の調略を受けて
長浜城を明け渡し、羽柴側に寝返りました。

 

これは、柴田勝家が同じ養子でも
柴田勝政を優遇し、柴田勝豊を冷遇したようで
なおかつ従兄にあたる佐久間盛政とも
仲が悪かったことなどの理由があったといわれています。

正月の年賀の席で年長の柴田勝豊を差し置いて
佐久間盛政に柴田勝家の杯をとらせようと
したなどの確執があったようです。

 

 

柴田勝豊の最期

しかし、そのころ柴田勝豊は
すでに病を得て床に伏せっていました。

そのため、1583年の賤ケ岳の戦いでは
家臣を代理として参戦させます。

 

そして賤ケ岳の戦いの直前、
秀吉の勧めで京都で治療をしますが
京都の東福寺にて病死します。

 

 

1583年4月16日、28歳という若さでした。

また、柴田勝家滅亡の8日前でした。

 

柴田勝豊死後の丸岡城

柴田勝家が滅びたあと、
北ノ庄は羽柴秀長の所領となり、
丸岡城には青山宗勝が入ったとされます。

 

最後に

 

柴田勝豊とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
柴田勝豊について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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