渋沢栄一ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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渋沢栄一の像
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渋沢栄一 100の訓言 (日経ビジネス人文庫)

 

渋沢栄一(しぶさわえいいち)
江戸時代後期から
昭和時代初期まで生きた武士です。
※官僚、実業家でもあります。

誕生時期:1840年3月16日
死亡時期:1931年11月11日

渋沢栄一は、第一国立銀行
東京証券取引所などといった
設立や経営に携わりました。

 

渋沢栄一とは何をした人だったのか?
どんな人だったのか?などなど
渋沢栄一について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

渋沢栄一って何をした人?

小説渋沢栄一 上 (幻冬舎文庫 つ 2-12)

渋沢栄一の誕生日

渋沢栄一は
1840年3月16日(天保11年2月13日)
武蔵国(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれます。

染料である藍玉の製造販売や養蚕、
米や麦の生産を手伝いながら、勉学にも励みます。

 

渋沢栄一と尊王攘夷運動

1858年、渋沢栄一は19歳で結婚。

1861年に江戸へ出て
儒学者の門下生になりつつ、
北辰一刀流の道場にも入門します。

江戸で知り合った
尊王攘夷派の志士たちと親しくなり、
尊王攘夷思想の影響を受けた渋沢栄一は
高崎城乗っ取りの計画をしますが
中止し、京都へ向かいます。

 

渋沢栄一と幕臣

1863年、八月十八日の政変が起き、
長州藩らが京都から追放されます。

尊王攘夷運動に行き詰った渋沢栄一は
江戸遊学時代に交際のあった一橋家家臣の
推挙によって一橋家に仕えることとなります。

 

渋沢栄一と渡欧

1867年、徳川慶喜が将軍となった為、
渋沢栄一は幕臣となりました。

そして同年に、パリ万国博覧会
幕府使節団に加わって渡欧し、先進的な
産業が軍事を視察して
新知識を吸収したのです。

 

明治維新と渋沢栄一

1867年、渋沢栄一は明治維新後に帰国。

1869年、大隈重信に説得されて
明治政府で大蔵大丞(おおくらたいじょう)を務めます。

国立銀行条例制定などに携わりますが、
予算編成を巡って大久保利通らと対立し
1873年に退官します。

 

実業家、渋沢栄一

渋沢栄一は退官後、実業家へ転身して
第一国立銀行を設立します。

第一国立銀行とは、現在のみずほ銀行ですね。

日本初の私鉄日本鉄道会社王子製紙
大阪紡績など各種500余の会社の設立に参画し、
朝鮮や中国への投資も企てます。

ちなみに、”bank”を”銀行”と
訳したのも、渋沢栄一だそうです。

 

さらに東京株式取引所や
東京手形交換所などの設立にも関わっており、
実業界の指導的役割を果たしたといえるでしょう。

 

1916年実業界を引退後、東京商科大学など
実業教育機関の創設や各種の会社事業に尽力しました。

 

渋沢栄一の最期

渋沢栄一は
1931(昭和6)年11月11日に亡くなります。享年92歳。

日本主義経済の発展に貢献した渋沢栄一は
日本資本主義の父」と呼ばれ称されています。

 

最後に

活学新書 渋沢栄一 人生を創る言葉50

渋沢栄一とはどんな人だったのか?
どんな人だったのか?などなど
渋沢栄一について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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