聖徳太子は、法隆寺を建てた人物。
日本人であれば誰もが知っている
日本に大きな影響を与えた偉人です。
聖徳太子が生きた時代は
今から約1400年も昔のこと。
その頃がどんな時代だったのかを
知らない人も多いのではないでしょうか?
この記事では
聖徳太子が生きた時代
「飛鳥時代」について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
目次
飛鳥時代(あすかじだい)の歴史をわかりやすく簡単に
聖徳太子が生きていた時期は
574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)から
622年4月8日(推古天皇30年2月22日)のこと。
この頃の時代は
飛鳥地方(奈良県)に都がありました。
飛鳥時代の範囲には諸説ありますが
基本的には592年から710年までです。
豆知識ですが、倭(日本)は
645年に大化の改新が開始される際
都を飛鳥(奈良)から難波(大坂)へ移動しています。
なので645年までを飛鳥時代と呼ぶ説があります。
しかし基本的には
都が京都へ移動する710年までを
飛鳥時代ということの方が多いです。
聖徳太子の生きていた飛鳥時代とは、
どのような時代だったのでしょうか?
飛鳥時代はどんな時代だった?
- 天皇を軸とした統一国家に
- 「寺院=豪族の権威」の時代へ
- 遣隋使、遣隋使の派遣
- 「倭」から「日本」へ
天皇を軸とした統一国家に
聖徳太子の生きた時代は、
仏教の信仰を巡って朝廷内部において
崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏らの
大豪族が激しく対立している時代でした。
廃仏派の物部氏は、
敏達(びだつ)天皇に
「疫病が流行ったのは、
蘇我氏が仏教を広めたせい」
と言って寺を焼き払い、
仏像を堀江に投げ捨てたといわれています。
聖徳太子の生きていた時代では、
当時、流行やまいが蔓延していたのです。
587年に、両者の争いが起こって物部氏が滅ぼされます。
その後は力をつけた蘇我馬子を中心に、
聖徳太子と協力して政治が行われます。
聖徳太子は593年から
推古天皇の摂政になります。
女帝であった推古天皇の代わりに、
聖徳太子が天皇に代わって政務を行いました。
聖徳太子は天皇の中央政権を強める目的で
氏姓制ではなく、才能を基準に人材を登用する
”冠位十二階”を制定し、翌年には”十七条の憲法”を定めます。
「古墳=豪族の権威」から「寺院=豪族の権威」へ
仏教の信仰を巡る
大きい争いが起きてしまうほど、
聖徳太子のいた時代は
仏教が重要視され始めていました。
仏教およびそれに伴う大陸文化が、
都の奈良県を中心に開花します。
蘇我氏や聖徳太子らによって広められた
仏教中心の文化を「飛鳥文化」といいます。
飛鳥文化が広まった倭(日本)では
様々な寺院が建設され始めます。
※「古墳=豪族の権威」から
「寺院=豪族の権威」に変わり始める。
■建設された寺院の例
- 百済大寺(くだらおおでら)
- 四天王寺(してんのうじ)
- 法隆寺(斑鳩寺)
- 飛鳥寺(あすかでら)
- 中宮寺(ちゅうぐうじ)
- 広隆寺 (こうりゅうじ)
寺院の中には、仏像彫刻も多く作られました。
■仏像彫刻の例
- 飛鳥寺釈迦如来像
- 法隆寺金堂釈迦三尊像
- 中宮寺半跏思惟像
- 法隆寺百済観音像
遣隋使、遣隋使の派遣
聖徳太子は隋(中国)へ
遣隋使として小野妹子を派遣しています。
その頃の隋は、南北朝を統一していて
強く大きな統一中央集権国家が出来上がっていました。
日本もこれに倣って隋の文化や
天皇の中央集権国家を導入したのです。
それまで日本は
少し隋などの国から下に見られていて、
何度か隋に渡っても失敗をしていますが、
何度も隋に派遣をすることによって
「隋との対等関係」が構築されました。
そして618年に隋(ずい)は滅び、唐(とう)の時代へ。
その後も倭(日本)は唐へ遣唐使を送り
様々なノウハウを吸収することに成功します。
「倭」から「日本」へ
700年前後に、国号が倭から日本になります。
いつ、「倭」から「日本」に変わったのか。
正確な時期は明らかになっていませんが
日本と中国の昔の資料を分析した結果
700年前後に「倭」から「日本」となったと考えられます。
飛鳥時代の最初から最後まで(592年から710年まで) 【年表まとめ】
592年【飛鳥時代】
日本の第32代天皇「崇峻天皇」が蘇我馬子によって暗殺される。
推古天皇が即位
※日本の第33代天皇。日本初の女性天皇
593年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が摂政(せっしょう)に。
※摂政とは、簡単に説明すると「天皇がやるべき政治的な仕事を代理で行う職業のこと。」
天皇が女性の場合やまだ幼い子供などの場合に、摂政が登場する。
推古天皇は女性なので聖徳太子が摂政となり、政治の仕事を代わりに行うことになった。
当時は、国際的な緊張が走っていた。
※593年頃に隋が南北朝を統一した後、
高句麗(現在の北朝鮮地域)などに進出。
日本の外(東アジア)は激動の時代。
国際的緊張が走る飛鳥時代初期、蘇我馬子や聖徳太子(厩戸王)たちは協力し、倭(日本)の国家組織を作り始める。
601年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が斑鳩宮(いかるがのみや)を建立
603年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が冠位十二階の制定
※氏族に関わらず(身分の上下に関わらず)
能力のある個人を高く評価する制度。
604年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が十七条の憲法の制定
※これから倭(日本)が目指すべき理想への道を
豪族たちに解説し、導くための決まり。
605年【飛鳥時代】
飛鳥大仏(丈六の金銅仏)の作成を開始
※推古天皇が鞍作鳥(くらつくりのとり)に造るように指示
606年【飛鳥時代】
飛鳥大仏(丈六の金銅仏)が完成
※飛鳥寺金堂へ納める
607年【飛鳥時代】
法隆寺を奈良に建立
※世界最古の木造建造物
小野妹子が遣隋使として隋(中国)へ。
608年【飛鳥時代】
小野妹子が帰国する
※中国王朝「隋」の煬帝から使者「裴世清(はいせいせい)」らと一緒に。
小野妹子が再度中国王朝「隋」へ。
※高向玄理(たかむこのくろまろ)と南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らと一緒に。
609年【飛鳥時代】
遣隋使小野妹子らが帰国
611年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が「勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)」を作成
※『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の1つ。
613年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」を作成
※『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の1つ。
614年【飛鳥時代】
中臣鎌足(なかとみのかまたり)が誕生した年
615年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)が「法華義疏(ほっけぎしょ)」を著す
※『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の1つ。
618年【飛鳥時代】
日本の外(中国)では隋(ずい)が滅び、唐(とう)の時代へ。
620年【飛鳥時代】
「天皇記」「国記」が完成
※聖徳太子(厩戸王)や蘇我馬子らによって作成される
621年【飛鳥時代】
聖徳太子(厩戸王)死去(49歳)
623年【飛鳥時代】
鞍作鳥が法隆寺金堂釈迦三尊像を建設
626年【飛鳥時代】
蘇我馬子死去。
※聖徳太子が亡くなってから約4年後
蘇我蝦夷が大臣になる。
628年【飛鳥時代】
推古天皇死去。享年75歳。
629年【飛鳥時代】
舒明天皇即位。
630年【飛鳥時代】
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らが遣唐使として唐(中国)へ行く。
636年【飛鳥時代】
田中宮へ遷都
※岡本宮が火災にあったため
639年【飛鳥時代】
百済宮・百済大寺の建立開始
百済大寺に九重塔が完成
640年【飛鳥時代】
厩坂宮に遷都する
高向玄理(たかむこのくろまろ)と南淵請安(みなみぶちのしょうあん)ら帰国
641年【飛鳥時代】
山田寺の建立を開始
※蘇我倉山田石川麻呂が支持
642年【飛鳥時代】
皇極天皇(斉明天皇)が即位
643年【飛鳥時代】
山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され自殺
645年【飛鳥時代】
乙巳の変(いつしのへん)が起こる
※中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)らが、蘇我入鹿、蘇我蝦夷を殺害した事件。
孝徳天皇が即位(天皇期間:645年-654年)
乙巳の変(いつしのへん)以降
大化の改新(たいかのかいしん)開始
※大化の改新とは、簡単にいうと「新しい政治改革」のこと。
班田収授の法も大化の改新により誕生した法律
都を飛鳥(奈良)から難波(大坂)に移す。
都の名前:難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)
646年【飛鳥時代】
改新の詔を出す(大化の改新の政策の1つ)
※公地公民制、班田収授法の制定
654年【飛鳥時代】
孝徳天皇(こうとくてんのう)死去。享年58歳。
※孝徳天皇のお墓の場所;大阪府南河内郡にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)
直径32メートルの円墳で「山田上ノ山古墳」と呼ばれている。
655年【飛鳥時代】
斉明天皇即位。
658年【飛鳥時代】
阿倍比羅夫が、蝦夷の地へ派遣される
百済滅亡
659年【飛鳥時代】
藤原不比等(ふじわらのふひと)が誕生した年
661年【飛鳥時代】
皇極天皇(斉明天皇)死去。享年68歳。
663年【飛鳥時代】
白村江の戦い
※倭(日本)と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍との戦い。
唐と新羅の連合軍が勝利する。
この戦いの場所:朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)
664年【飛鳥時代】
白村江の戦いでの敗北を反省し、国の防衛を強化する。
※津島(つしま)、壱岐(いき)、筑紫(つくし)に、防人(さきもり)と烽(とぶひ)がおかれる。
- 防人(さきもり):防衛のための兵士
- 烽(とぶひ):敵襲を知らせるための狼煙(のろし)
665年【飛鳥時代】
大野城(おおのじょう)を建築
※場所:福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山
基肄城(きいじょう)を建築
※場所:福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)
667年【飛鳥時代】
都を近江大津宮へ移す
高安城を建築
※場所:大和(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市の間)
八島城を建築
※場所:讃岐(長崎県東彼杵郡波佐見町八島)
金田城を建築
※場所:津島(長崎県対馬市美津島町黒瀬)
668年【飛鳥時代】
天智天皇が即位。(天皇期間:668年-671年)
※天智天皇=中大兄皇子
669年【飛鳥時代】
藤原鎌足死去
※藤原鎌足=中臣鎌足
670年【飛鳥時代】
日本初の戸籍制度が誕生
※当時の主な戸籍は、庚午年籍(こうごねんじゃく)
672年【飛鳥時代】
天智天皇死去。享年46歳。
天智天皇(中大兄皇子)の死因は病気の可能性が高い。
病名はハンセン病であったと伝わっている。
壬申の乱
※大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子の皇位継承争い。
大海人皇子が勝利する。
壬申の乱は古代史上最大の内乱。
天武天皇が即位。(天皇期間:673年-686年)
※壬申の乱で勝利した大海人皇子
676年【飛鳥時代】
1月28日 舎人親王が誕生した年
684年【飛鳥時代】
橘諸兄(たちばなのもろえ)が誕生した年
長屋王(ながやおう)が誕生した年
八草の姓を制定
※天皇中心の新しい身分制度
686年【飛鳥時代】
天武天皇死去。
688年【飛鳥時代】
鑑真(がんじん)が誕生した年
689年【飛鳥時代】
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行
690年【飛鳥時代】
持統天皇即位。(天皇期間:690年-697年)
694年【飛鳥時代】
都を藤原京に移す
※藤原京の場所:奈良県橿原市(かしはらし)
695年【飛鳥時代】
吉備真備(きびのまきび)が誕生した年
697年【飛鳥時代】
藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘が文武天皇の后(きさき)に。
※后(きさき):奥さん
700年前後【飛鳥時代】
国号が倭から日本になる。
※いつ、「倭」から「日本」に変わったのか。
正確な時期は明らかになっていない。
日本と中国の昔の資料を分析した結果
700年前後に「倭」から「日本」となったと考えられている。
701年【飛鳥時代】
大宝律令(たいほうりつりょう)
※刑部親王や藤原不比等らにより完成
この時期から「日本」という国号が正式に使われるようになった。
703年【飛鳥時代】
持統天皇(じとうてんのう)死去。享年58歳。
※持統天皇の死因は病気の可能性が高い。火葬(天皇では初めて)される。
706年【飛鳥時代】
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が誕生した年
708年【飛鳥時代】
和同開珎(わどうかいちん)の発行
※日本初の流通貨幣
最後に
聖徳太子が生きた時代である「飛鳥時代」について解説しました。