真田昌幸とは?何をした人?わかりやすく解説【長野県「上田城」の築城者】

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真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

 

真田昌幸(さなだ まさゆき)
戦国時代(室町時代末期)から
江戸時代初期にかけての武将・大名です。

誕生時期:1547年
死亡時期:1611年6月13日

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また、長野県「上田城」の
築城者でもあります。

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真田昌幸とはどんな人か?
何をした人なのか?などなど
真田昌幸について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介していきます。

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真田昌幸とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

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真田昌幸の誕生日

1547年真田幸隆(幸綱)
三男として生まれます。

生誕月日は分かっていません。

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真田昌幸には兄が2人いたため
生まれた時点で真田家の
家督相続の権利はありませんでした。

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真田昌幸、武田家の人質に

7歳の真田昌幸は
武田家への人質として甲斐国へ下り
近習として仕えます。

 

その後、武田晴信(信玄)の母方の
親戚にあたる武藤家に養子入りし、
武藤喜兵衛と名乗るようになります。

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真田昌幸、武田信玄の下で活躍

真田昌幸の初陣は15歳のときの
第四次川中島の戦いといわれています。

また、このころ
真田昌幸の父である幸隆が隠居し
真田昌幸の兄「真田信綱」が家督を相続します。

 

その後も真田昌幸は、
小田原城攻め
三方ヶ原の戦いなどにも参陣します。

 

また、三増峠の戦いでは
先陣の馬場信春への使番を務め、
一番槍の功をたてました。

しかし1573年、
仕えていた武田信玄が病死していまい、
その後は息子の武田勝頼に仕えます。

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真田昌幸の子供たち(真田信之と真田幸村)が誕生

 

1566年、真田昌幸の長男
真田信之(のぶゆき)が誕生、
続けて翌年には次男の
真田幸村(ゆきむら)が誕生します。

 

 

真田家相続

1575年、長篠の戦い
武田勝頼勢が織田・徳川軍に大敗します。

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さらに、この戦によって
真田昌幸の2人の兄が戦死してしまうため
真田昌幸が真田家を総督することとなるのです。

ここから名を真田昌幸と名乗ります。

 

 

主家の乗り換え

1580年、真田昌幸は
北条氏の守る上田の沼田城を攻略します。

1582年、
織田・徳川連合によって
武田家が滅亡します。

そのため真田家は織田信長に仕え、
そのときに沼田城を織田の重臣
滝川一益に差し出します。

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しかし本能寺の変が起き、仕えてから
わずか3か月で織田信長が死去します。

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その後、
滅びた武田領を巡る争い、
天正壬午の乱が起こります。

この領地争いに乗じて昌幸は
滝川から沼田城をかすめ取るのに成功。

 

真田昌幸は上杉景勝の家来となるも
すぐに北条氏直の家来となります。

しかしその3か月後には
徳川家康の家来となります。

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本能寺の変が起こった1582年は
真田家にとって苦難の連続でした。

 

 

真田昌幸が徳川家康に勝利

1583年、真田昌幸は
信濃(現在の長野県)上田城を築城します。

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真田昌幸は、徳川から
元々は北条のものであった
沼田城を北条に返すよう命令されたが、
これを拒否し、徳川と決別します。

 

上杉景勝の家来となります。

 

1585年、
第一次上田合戦が起こります。

これは徳川家康と
真田昌幸や上杉の援軍の戦いで、
徳川軍7000に対し、
真田昌幸はなんと
2000の兵で撃退に成功します。

 

その後、豊臣秀吉の家来となり
次男の幸村を人質として大阪へ送ります。

 

 

親兄弟の決別

1598年、豊臣秀吉が死去。

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石田三成側と徳川家康側での争い
関ヶ原の戦いが起こります。

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真田家はここで大きな決断をします。

昌幸・幸村は石田三成の味方に、
信之は徳川家康の味方となるのです。

 

親兄弟が敵同士となりました。

 

結果、石田三成側の敗北、
真田昌幸と幸村親子は九度山に追放となったのです。

 

 

 

真田昌幸の最期

1611年、
真田昌幸は信濃へ帰ることはできず
幽閉された九度山にてこの世を去ります。

享年66歳。

 

最後に

真田昌幸のすべて

 

長野県「上田城」の築城者、
真田昌幸とはどんな人か?
何をした人なのか?などなど
真田昌幸について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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